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「それが好きだから」モニュるんだ

 なかなか、自分の損には敏感だが他の損については鈍感である。そのような自己中心的な行動をみかけること自体珍しいものではないが、興味深いことにその人たちはあたかも「公共性に欠ける」行為として糾弾しているようにも見受けられた。某サービスのAPI有料化についてである。

 まず簡単に考えれば、他人が開発したシステムを無料で利用し、唯一の収入源である広告を非表示にするようなサービス/ソフトウェアを、提供側に還元されない形で有料販売されている現状を、システムの提供側(しかも営利企業である)から見た場合に利用許可を継続させる理由があるかといえば難しいだろう。リソースは無限に湧き出ているものではなく、維持費は必要なものだからだ。そういった事情を少しでも考えてしまっていたところに「ここまで(サービス/ソフトウェア)育てた利用者への感謝が足りない、有料化は酷い掌返しだ」といった意見を目にして「そういうことなのか」と少し驚いたものの(リアルに目が丸くなった)私が持っている視点は大分少なくなってきている(だからこうなっているのかもしれないが)と深く納得をしてしまった。

 まず前提として、私は今主流のインターネットのヘビーユーザー層からみると老人の部類である。インターネット老人会クイズなどが時々催されているが、全くクイズにならないような老人偏差値が高めに振り切れているような人物である。インターネット若造会が活力のない歴史資料より引用をしてクイズを作成しているに違いない(キリッ)。まず、こんな変人はメインユーザー層の一般的な数から言えば、少ないということを述べておく。

 そもそも、古の時代では全て従量課金制が一般的であり、閲覧にすらコストが掛かる上に「英語ですらググっても庶民が必要なことを平易な内容として見つけることは難しい」時代である。今はリアルな人同士の会話においても「ネットに書いてあったからお前の話は聞く必要が無い」(IT非専門領域な上にいろいろヤバイ自職場調べ)という謎の信頼感があるが、当時あったことといえば、遠方にいる人と人を繋ぐことができる、正にそういった意味でのネットワークだった。インターネットといえば、検索をするというよりも人から何かを得るといった、そんな雰囲気が当たり前だったように思う。今でも動画サイトなどで交流をしているように思えるかもしれないが、もっと濃密で少人数同士での行いが主だ。流石に私も中学〜高校生だったので、全体的な印象のような記憶しかないが、そのように私は当時のことを捉えている。

 様々なデータや情報を交換するにあたり、人々は大変に親切だった。自分が苦労をして入手/作成したデータを公開し配布することに、ためらいは無い。ただ、とても嫌われたのは「貰うだけ貰って自分は一切の奉仕を行わない」という所謂DOM(DownLoad Only Member)というもので、その人は今後の利用を許されずキック(BAN)されることは極普通のことだった。このことの是非はともかく「一方的な損をする人」はこのおかげで数が少なかったのではないかと推測する。これらは現代からみると、とても閉鎖的にみえるかもしれないが、結果的に持続可能なつながりの有用性を理解できる人達を守ったことによって、このように平等性が保たれるといった健全なコミュニティが至る所で存続できたことにより、有用で良質な情報が得られたのは事実だろう。このような積み重ねによる知や情報が今のインターネットの「当たり前」を支えていることは一応触れておきたい。

 大半のコンテンツを「無料」にて享受することが、さも当然のインターネットから入った人であると、確かに有料化は理不尽で強欲に感じる一方で、一方的なサービス搾取になっている構造については無関心であるようにに見受けられる。もちろん私とは全くもって接してきた環境が違う分、認識の差があるのだろう。しかし理解があると思われたプログラマですら「シェアを拡大してやった」といった態度をとる人もいて、流石に育った年代の差を実感してしまったところだ。論点が違うだけではあるのだろうけど、事実であったとしても、その言葉が先に出てくることによってベースとなっている思想が見えてしまい、それが違和感として残ってしまうのだ。

 ネットにあるものは無料で利用可能である、それ自体は元々善意だ。知識は共有しよう、お互いに持っていない情報を交換しよう、便利になる技術を提供しよう、無論今でも一部のコミュニティ(私の大好きなキレても面白いリーナスおじさんのところ)ではそれらが死滅したわけではないが、一般大衆化した部分におけるインターネットでは「一方的な搾取」をしておきながら、一切の貢献を行わないことが当たり前になっている。もし古の時代に共有ベースではなく、搾取が当然であったならばもう少し変わったものとして発展していたかも知れない。

 時代と共に言葉の意味も社会も変わってゆくのは当然のこと、昔の事を持ち出して価値観の相違を批判したいのではない。この世界なりの発展、進化はきっとある。ただ自由やら権利やらを主張するけれども、一切の貢献もなしに一方的な享受が当然という、持続不可能な世界を構築し始めていることには無自覚なのではないか、そんな心配をしてしまった。

 貢献や対価を求めると批判が生じる場合、同時に搾取行為を正当化させていることには無自覚である。あなたのためにリソースをどのように割くかは提供側の自由であり、それにふさわしくないと思うから、現状の提供方法を断られているだけである。このパターンが増えてゆけば、自ずと公開し利用できる情報は狭まってゆくのは私でも多少想像がつく。このなかで容易に広がってゆくものと言えば、手軽に収益性が見込めるゴシップ記事やらキュレーションサイト、何が面白いかわからない公共の不利益動画などだろう。

 明らかに古視点の理屈であることはわかっている。実際に課金をすることが偉いだとか、身の丈を考えずに支援をするべきだという話ではなく、上記のような「一方的な享受が当然である」といった、もはやある程度の集合的無意識のように散見されることが、どうにも心細く感じた次第である。

 居心地の悪い集団の中で、このように「少しだけ身じろぎ」をしてみたに過ぎないのだが、じっとしているにはあまりにも落ち着かないし、異世界に住むような極まっている系の誰か(もしくは何か)がひとりでも、わかってくれたら嬉しいと思う。

 私の好きな空気感が詰まっていた記事を発見した。古い記事だが私が伝えたい「当時」が少しでも伝わることを祈ってリンクを置いておく。皆に少しずつでもよいから、楽しくて有意義な世界が続きますように。

 余談:りーなすおじさん。「チョットデキル」が恐れられる言葉になったのはこのTシャツのせいかもしれない。

 Linus Torvalds(LinuxCon 2014より)