見出し画像

雪の信号待ちにて

 さっぱりと目覚めることがない朝。それでも通勤時間はやってくる。テレワークが可能な身分になりたかったと思いつつ、降雪によって難易度があがる早朝ドライブに挑む。

 交差点の信号待ち。突然天候が変わったらしい。ビーズクッションが空中で破れたのではないかと思えるような白い粒がカラカラと音を立てながら、車のフロントガラスを真っ白に変える。数秒の間に、ガラスの向こうにあるはずのものが何も見えなくなった。大きめの溜息をつきながら、ワイパーを作動させると赤だったはずの信号はいつの間にか青へ変わっていた。少し慌ててアクセルを踏む。

 何度もワイパーを往復させてみた。その度にビーズクッションの中身のような雪は勢い良く飛散していく。

 雪に覆われたフロントガラスは綺麗なのだから、そのまま止まって見ていたら良い。雪はそのまま、溶けるまでそこにあるだろう。見えないのだから前に進む必要もない。見なければわからないままですむのに、面倒くさいしコスパが悪い。それに今、ゲンジツ的に綺麗じゃないか。

 暇つぶしにどこかで見た事例をトレースしてみては、最後にはつまらない気持ちになる。車内の人間が悦楽に浸っていようと、苦悶の表情で見えない前方を見つめていようと、車外に立つ人から見ると、障害物も退けずにただ青信号で止まっているだけの車に過ぎない。進むべきタイミングに、ただ止まっているだけの物体だ。

 観測者による存在位置の数だけ、そこからの観測を根拠にした世界が存在するのだから、何か一つを唯一無二という「それらしきゲンジツ」としてしまうのは私にとっては不自然なことだ。小学生の頃からはそんなことを考えていたような気がするが、親へ質問をすると大体叱責が回答であって(「自分はどうして自分であるのか、他の視点に立つことは不可能か」といった質問によって実に父親を不安させた結果だろうと今は推測できるが)、なかなか困った記憶がある。

 とにかく、疑問の対象は広かったが、田舎特有でもある環境リソース不足もあってうまく消化できなかったという思い出がある。両親の知識や、蔵書は山ほどあったものの、家庭内の雰囲気が悪かったり、そして古めかしく厳つい「ロマン・ロラン全集」みたいなものや無数の工学書達では、小学生の私の答えには遠かったように思う。電気工学を専門にしていた父の部屋は部品まみれだったのだが、そこが落ち着くからと探検をしながら湧き上がる疑問を、その部屋で噛み砕いていた日々を思い出す。

 正しく参照できるリファレンスがない状態(聡明な人は自分で探求、編集を行うようだ)なので殆どは妄想にしかならないのだが、中二妄想が得意である理由はこれらで訓練された結果かもしれない。そして客観的にも編集され、精査されたリファレンスを共有する大切さに、今頃気が付くとは私は凡人以下なのだろうなと今更ながらに、唸ってしまう。

 雪の信号待ち。そんなことを懐かしくも考える朝だ。