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根本的な欲望

 完全な思いつきで「Detroit: Become Human」をプレイした。アンドロイドの存在が社会活動において一般的になった世界の話である。自分でストーリーの分岐を選ぶことができる10時間ほどの映画という表現が、ゲームという説明よりもわかりやすいかもしれない。モデルも実にリアルなことも、一要因だろう。

 アンドロイドという存在がある世界とはいえ、今も人間が生物学的にも同じ人間に対して行ってきたこと、または行われている問題がそのまま再現されている。貧困、差別、虐待、奴隷、どれも皆が触れることを拒む出来事を軸にストーリーがすすんでゆく。人間の不合理な指示や振る舞いにコンフリクトするアンドロイドが人の指示通りに動作できなくなる様は、人間よりも理想の有るべき姿の人間らしく見えたものだ。

 私の選んだ結末は、アンドロイドを知的生命体として国が認めざるを得ない未来。私には大多数の人間側につく理由が思いつかなかった。平和的な対話やデモを行ってみたところで、権利のないアンドロイド側は常に攻撃排除対象になるものだから、私は「話をしてわからぬ上に、殴ってくるのなら殴るしかない」といった手段を選択した。助けられる仲間はギリギリまで助けるが、駄目な時は諦める。最後には収容所なるものに集めて破壊(アンドロイドからみたら虐殺)まで行うものだから、リアルが少し過ぎるなと思いながらも拒絶の意思を示すために開放するべく乗り込んだりした。当然両陣営無傷では済まず、結果として世論のパラメータは「険悪」になり、和解というよりこれからは内戦状態になる可能性もありそうなラストだった。しかし最後に大統領からもぎ取った言葉は、個人的には理想の結果だったのかもしれない。

 一方で、アンドロイドと人間であってもお互いを知ろうとする関係もあった。麻薬や酒に頼らなければいけない世界を変えてくれとアンドロイドの背中を押す人間もでてくる。また哲学や、自分で決めること、意思を持つことをアンドロイドに解く人間もいた。その人たちとは最後まで良好な関係を保つエンドになったことは非常に心の穏やかにしてくれる。

 非常に個人の性格が反映される結果になり、それは実に興味深い。私は対話を望むが、その立場に立つに一定の力が必要だと考えているようだ。殴られたら殴りかえすしかない等、割と暴力性高めの人間である。表面上は暴力は良くないというものの、全ての権利がない状態をロールプレイしてみると、過激な手段を取ってしまう理屈もわかってしまうものである。「そうしなければ存在を消される」のだ。このあたりは私の想像力が欠如していたかもしれないし、恐らくは気が付きたくなかったことかもしれない。恐らく、今も人間同士で行われていることだからだ。

 どんなに便利な機能や技術あっても、人の構成する社会そのものにある問題はそれによって改善されるという可能性は確かに低いだろう。形を変えて類似の問題が繰りかえされると予想できるのだから、人は大変愚かなことを考えるという前提で、技術に接してゆくことがこの先も大切なことのように考えた。

 同じ種族同士として和解が難しい人間が、更に違う他のものを理解できるようになるのだろうか。利益もないことを理解しようとするのだろうか。欲望を制御せずに良い立場になった人間なら尚更だ。皆のためという大義名分を使いながらも、選択が出来ていることに無自覚なまま、自分のためでしかない言動や行動をどれだけ認められるのだろうか。誰からも批判されないために社会的に「正解」な行動を装いながら、他人が引いた貧乏くじを無自覚に嘲りながら、自分には関係はないし、自分のほうが不幸だと比較し始めるのだ。

 本音を言うならこれらの「正しい」態度はもはや食傷気味である。飽きたから、関わりたくない。そう、飽きたのだ。

 なんとなく、如何ともしがたい日々を過ごす人、もの、何かがいることを想像する。私にはよりよい明日が迎えられることを祈るしかないのだけど、せめて「存在」だけは私の中にだけでも有ってほしい。そして大丈夫と、無責任なことを言いたい。