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時々読み返したくなる記事、疲れた時に是非。
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#人格

「さみしさ」という鋳型

「寂しさを感じているが実際に人と会うと疲れるというタイプの人は、『交流をもっと持たないと』という観念にとらわれず、無理に友達の幅を広げようとしないほうが、結果としてQOLは上がるのではないか」という趣旨のツイートを見て、たしかにそうかもしれないと思うなどした。  過去のエントリでも何度か話題にしたことがあるけれども、この「さみしさ」というのは仏教で言われる「渇愛」と似たところがあって、単なる一時の感情であるというよりは、むしろそれを発生させるエネルギー源もしくは構造として、

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「正しい答え」を集めた先に、「教養」があるわけではない

(※録画視聴パスは、10月1日のエントリより取得できます。)  そんなわけで宣言どおり、ハート『法の概念』の(ひとり)読書会を順調に(?)進めているのである。  このような「読書会」をやっているのは、これまでも何度か述べてきたとおり、テクストを読むという営みのいわば「深み」と、そこにおいてこそ涵養される「文系」の知的能力という、現代日本においては顧みられることの少なくなったように思われるものについて、少しでも人々の関心が向かうための一助になれば、という動機があったからであ

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よい評伝は、しばしば深すぎる愛の所産である

 1年ほど前に出た田中耕太郎の評伝を、いまさらながら読んだのである。  田中耕太郎は、一般にはおそらく砂川事件や苫米地事件といった著名な事件を扱った時代の最高裁判所長官として知られていることが多いであろうが、それ以前に彼は東京帝国大学の教授であり、敗戦後の日本の文部大臣であり(この資格で日本国憲法に署名もしている)、また参議院議員であり、そして最高裁長官を退いた後は、国際司法裁判所の裁判官も9年間勤めている。このような多彩な職務・立場を個人がその一生のうちに経験することは、

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「個人的なこと」は本当に、「政治的なこと」になってしまった

 知識人や言論人の「言ってることとやってることが違う」のは許されてよいか、といった話題を目にして、これは昔よく考えたことだなあと、懐かしく思い出すなどした。

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読んでいて苛々するような本を、それでも最後まで読む意義について

 そういえば、先日のツイキャスでは「主張のスタイルや考え方の合わない本を、それでも最後まで読む」という態度についても話題になったが、これは実際にも大切なことであると思う。

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面白さと気持ち悪さのバランス

 昨日のエントリのみならず、とりわけ今月の本noteの記事の多くは、字数だけでなく内容の面でもかなり「読者に負担をかける」ものになっているのではないかと心配していたところ、そうしたエントリを思いのほか支持してくださる方々もいたりして、たいへん有り難いことだと感じている。ただ、このあたりの「バランス調整」は相当に繊細な性質のものでもあるから、引き続き読者の方々の反応を見つつ、試行錯誤してゆく必要があるだろうとも思うところだ。

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当たり前のように思える話こそ、順を追って丁寧に考えよう

 先日のエントリで、「人格」や「尊厳」という概念(言葉)の基本的な意義について解説したが、これがわかっていることで、クリアな判断がしやすくなる問題も様々にある。そのうちの1つが、たとえば子供の「自由」や「自律」について、どのように考えるべきかという問題だ。

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「人格」や「尊厳」とは、そもそも一体なんだったのか

 昨日のエントリでは哲学教育の意義について述べたけれども、それでもやはり、「そんなことをやって何のメリットがあるのかわからん」と感じた人はいるかもしれない。そこで今回は、現代日本社会において私たちが日常的に使用している「人格」及び「尊厳」という言葉(概念)に着目して、その哲学的背景について略述してみることにより、こうした疑問に対する別の角度からの回答を試みてみることにしたい。

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