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2023年10月の記事一覧

「正しい答え」を集めた先に、「教養」があるわけではない

(※録画視聴パスは、10月1日のエントリより取得できます。)  そんなわけで宣言どおり、ハート『法の概念』の(ひとり)読書会を順調に(?)進めているのである。  このような「読書会」をやっているのは、これまでも何度か述べてきたとおり、テクストを読むという営みのいわば「深み」と、そこにおいてこそ涵養される「文系」の知的能力という、現代日本においては顧みられることの少なくなったように思われるものについて、少しでも人々の関心が向かうための一助になれば、という動機があったからであ

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「文系」不要論の背景にあるもの

 というわけで、前回の記事の続きである。  一昨日の上掲エントリでは、いわゆる「文系」の知的能力の性質について私見を簡単に述べてみたわけだが、今回はそのような知的資質の「人格」との関係及び、その現代日本における需要(の減少)について少しばかり論じてみたいと思う。

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いわゆる「文系」の知的能力について

 前回の記事では、牧原出『田中耕太郎』について全般的なコメントをしたわけだが、本稿ではその緩やかな続きとして、いわゆる「文系」の知的能力の性質に関する私見を少しばかり述べてみたい。同書の記述に触発されて、昔からこの点についてなんとなく考えていたことを、この機会に簡単にまとめておきたくなったからである。

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よい評伝は、しばしば深すぎる愛の所産である

 1年ほど前に出た田中耕太郎の評伝を、いまさらながら読んだのである。  田中耕太郎は、一般にはおそらく砂川事件や苫米地事件といった著名な事件を扱った時代の最高裁判所長官として知られていることが多いであろうが、それ以前に彼は東京帝国大学の教授であり、敗戦後の日本の文部大臣であり(この資格で日本国憲法に署名もしている)、また参議院議員であり、そして最高裁長官を退いた後は、国際司法裁判所の裁判官も9年間勤めている。このような多彩な職務・立場を個人がその一生のうちに経験することは、

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「解散命令請求」は何を解散させるのか

 旧統一教会に対する解散命令請求が今月13日になされたことで、「政教分離」が一部でまた話題になっているようである。ただ、政教分離の基本的な理解について、本noteでは上掲のツイートに引いてある過去エントリで、既にまとめて述べてあるから、本稿では今回行われた解散命令請求というものの性質について、基本的な情報をまとめた上で、私見も簡単に示しておきたい。一部SNS等をみる限り、知識人というべき方々であっても、この請求の性質について、誤解をしている人が少なからずいるように思われるから

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まともな大人になるためにこそ、ボケッとする時間が必要だ

 何しろ人間は、ボケッとする時間をとらなくてはいけない、ということを、最近はよく考える。

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ほとんどの人は知らないままで

 今日もSNSでは「早く◯◯しないとダメ! 勝ち組はとっくにやってるぞ!」とか、「✕✕歳になったらもう手遅れ。そうなる前に着手しておけ」とか、そんな投稿がしょっちゅう流れてきており、これは仏教もまだまだイケそうだなと思うなどした。

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言葉を「血肉化」するためのプロセス

 10月はじめの雑談では、「ひとり読書会」のプランについて語ったりなどしたのだが、なぜ私がこういうことをやりたい(やる価値がある)と考えるのかについて、もう少し言葉を補っておきたくなった。

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みんな宗教に「騙され」たくない

 1年前のエントリで予測した未来が、着々と現実化しつつあるなあと感じる、昨今の世相なのである。

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