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2022年8月の記事一覧

自分の人生の最終判断を、他人や社会通念任せにしないこと

 昨日のエントリでは、「素人は黙っとれ」、あるいは「専門家に従え」論のことから話をはじめたわけだが、これについてもう少し書きたいなあと思っていたところ、ちょうどたまたま以下のインタビュー記事を読む機会があった。  後藤邑子さんの語っている内容は、もちろん実に素晴らしいので、リンク先は長くてもできれば全文を読んでいただきたいが、それはそれとして、インタビューの中には個人的に「そうそう、私もこれがいいたかったんだ」と感じられるところがいくつかあったので、今日はそのことについて書

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「被害者はこっちだ」合戦からは、たぶんしばらく逃げられない

「私(たち)は◯◯された側であり、被害者である」という自己規定を前面に出しつつ言説闘争を行おうとする victimhood cultureの戦略は、いまや日本でもSNS等で毎日のようにその実践例を観測することができる。これに対して、「むしろあなた(たち)は加害者なのであって、こちらこそがあなた(たち)に◯◯された被害者なのだ」と訴えるという、いわば「victimhood返し作戦」による対抗言論がなされることも、日々当たり前に見かけるようになった。  このような言説戦略に対し

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「リアル哲学対話」の味のこと

 先週末は久しぶりに賑やかな場所へ足を運んで、宗教とか文献学とか、そういう抽象的でややこしい話をたっぷりやった。疫病禍のせいで、実際に人と顔を合わせてその種の話をする機会もずいぶん減っていたのだが、おかげで気分もすっかり爽快になり、やはりこういう話を時々はやっておかないと、一掃できない澱のようなものが自分にはあるのだなあと、改めて認識した次第である。

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「哲学」はやっぱり大切なのよ

 前回、前々回と、「当たり前のように持ち出される規範について、その根拠(趣旨)を確認した上で、具体的な場面における当該規範の適用の妥当性について考える」ということの実践例を示してきたわけだが、そもそもこんな話をはじめたのは、「自分の頭で考えろアレルギー」の原因について検討するためであった。しかし不幸にも前二回までのエントリでは具体例の解説だけで話が終わってしまったので、今回はさっさと本丸の話題からはじめて、ここまで述べてきたことを簡潔に総括することにする。

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自由の衝突が起きるのは、民主主義社会の当たり前

 昨日のエントリでは、「世間において当然のように主張されている既存の規範の根拠を再検討すること」の意義について、政教分離を例に取りつつ簡単に論じた。今回はその続きとして、また別の例を挙げながら同じテーマについてさらに考察を進めるつもりであるが、とりわけ本稿で取り上げる問題と、それに対する私の見解については、読者の方々のあいだでも(前回以上に)意見が分かれてくることになるかもしれない。

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少数派が選択するオルタナティヴ

 仔細あって、世の中的には「ジェンダー小説」とも評価されているらしい著作を読んだのだが、なんというか久しぶりに、人間の気持ちをひたすら直接的に書き綴っている文章を読んだなあという感懐をもった。そしてさらに、自身も被害を受ける立場でありながら女性の苦しみに心を痛める登場人物の男の子について、「加害者属性の人間のくせに苦しみを語るな」などと罵倒するレビューをいくつか見かけて、その信じがたいほどの傲慢さに呆れるとともに、生理的な気持ち悪さを覚えてリアルに吐き気を催したりもした。思う

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極論と無責任体質のマリアージュ

 一昨日の夜は、しばらく前から楽しみにしていた、はむっちさんとのツイキャス対談であった。 (※録画視聴パスは、8月1日のエントリから取得できます。)  英語学習の話からはじまって、『仏教思想のゼロポイント』と現実教、いわゆる「医クラ」問題など、多岐にわたるトピックについて、140分近く語り合うことができた。はむっちさんは、いつもながらどんな話題についても打てば響く応答ぶりで、「広く深い知的バックグラウンドに基づく世間話」を久しぶりにたっぷりやれた実感があり、私としてもたい

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「読む」ことのプロであるとはどういうことか

 昨日のエントリでは、なぜ「人文学」の人たちは原典を読もうとするのか、という問題について、私の立場からの解説をひととおり記した。本稿ではそれに引き続いて、「人文学」の教育現場で多く行われている原典講読のゼミ(演習)の効用についての話からはじめて、さらにこの知的営みの性質について明らかにしてゆくことにしたい。

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専門知のフレーバーを振りかけた感情的動員の手法

「理性や専門知によってではなく、感情を通じて社会問題を解決しようとする風潮が近年どんどん強まっているように見えるが、その原因は何であるのか」といった呟きを見かけたので、「それは民主主義が定着し、これに適応した人々の一定の行動様式が、インターネット社会の深化を通じて、さらにその特性をブースト(極端化)させているからでしょう」と、直ちに考えるなどした。

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瞑想者が鬱々とすることはあるか(下)

 昨日の記事では、瞑想者が実践のプロセスの中で、一時的に「鬱々と」したり、「虚しい気持ち」になったりすることが、どんな場合に起こり得るのかについて検討した。本稿はその続きとして、こうした時期を無事に乗り越えた実践者が、それ以後は「虚しい気持ち」になったりすることがないのかどうかについて、いささか私見を披瀝してみることにする。

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できれば雨乞いはやめたいけれど

 たいへん遺憾なことではあるのだが、私は何事についても、追い詰められないとエンジンがかからないタイプである。「そんなの誰でもそうだろう」と思われる方もいるかもしれないが、大学時代のレポート課題などは、決まって最終提出日の午前0時を回らなければ手を付けることができなかったくらいだから、私のこの病の程度は(本当に本当に恥ずかしいことであるが)膏肓に入ったものであったといえる。昨年亡くなった立花隆さんが、「原稿の締め切りが差し迫っている時に、敢えてパチンコに行ったりするんだよ」とい

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