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クリスマスやお正月が孤独だったことを思い出した日のはなし

一昨年、母かずこが亡くなった。

その前につぶやいている

そして同じ日にこんなことも

そしてクリスマスが終わった26日
彼女は旅立った。

忙しさが終わって
ホッとしたような顔で

彼女の最期は
父と過ごした高知に戻ってきた

病名は腎臓ガン転移

自宅から透析に通い、
デイケアで風呂やリハビリをし、
できる限り自分で出来ることをする生活をしていた。

高知で過ごした間に、
病状がわからない、治療にならない日々が続いたことで、姉が実家の大阪に連れて出たのだ。
医療格差が10年はあると言われる地域医療。全然違う。

連れ出してもらったおかげで、
透析をしながら
自分の生活が出来、喜んでいた。

80を越した頃から、ガンの進行と
体力の闘いになってきていた。

ひとつひとつの治療が、大きく体力を削る。

しんどいのは嫌。もう手術も嫌。

母のたっての希望で、化学治療や手術ではなく、緩和治療となっていった。

姉と甥っ子から、改めて連絡が来たのは、2021年の夏だった。

もう、体力も限界で、だいぶ自分のことも出来なくなった。

家での看病にも限界が来ていて、
大阪の主治医からは、今度の入院は
元気に退院が出来ないと覚悟してくださいと。
もって今年いっぱい。
そんな相談だった。

母は、入院は嫌だと頑張っていた。

コロナ禍で、誰にも会えない、顔も見れなくなるからだ。

ソーシャルワーカーさんや
地域連携室の方々に相談して、
面会でき、透析が出来る病院を探していたが、面会どころか緩和ケアの病院自体が、コロナ病床に取られ、入院施設がないのが大阪の現状だった。

「大阪からでちゃダメなが?」
ワタシの言葉がキッカケとなった。

主治医とも相談の上、いろんなところを探してもらった。

「高知に帰りたい」と口にすることも多くなっていた母。

いっそ、高知に帰ってくることは出来ないか。と探してもらったら、高知の病院で緩和ケアも透析も出来るとのこと。

大きなレンタカーに母を寝かせ、姉と、ワタシと、大阪で休学をしていた長男で、高知まで帰って来ることができた。
それが、2021年11月15日のこと。

コロナの感染数0が続いていたおかげで、病院での面会も可能となっていた。

長男と毎日、病院に足を運び、身体を拭いたり、好きなものを買って食べさせたり。

母が、緩和ケアで高知に帰って来てから、およそ1ヶ月ちょっと。

高知まで会いに帰って来た甥っ子と、
2人の息子たちが、

ベッドの側で、ばあちゃんを囲んで撮った写真。
自慢の孫に囲まれて幸せそう。

本当に素敵な、誕生日。
12月22日。
84歳を迎えた。

「おばあちゃん、年明けに来るき、頑張りよりよ〜」と
12月23日に、甥っ子はトンボ帰り。

12月25日、病院より連絡。
母のそばで、一夜を過ごし。
個室なので、ずっと身体をさすり、話が出来た。
ただ、ただ、最期を看取ること。

わかっていても、納得がいかないもので。
いろんな感情が込み上げて来た。

ツイートは、そんな心の奥底の、
恥ずかしいような部分すら、
あからさまにしていて

あんなに寂しかった
幼い頃のクリスマスや、お正月。
働く母がキラキラと輝いてみえて
それがまた生きざまのようで

ワタシは、
こんな生きざまが出来るだろうか。

今になっても、あの寂しさを
あの日を、
思い出すと涙がつたう。

あんなにブツブツと
憎しみをぶつけながら
最期を看取った父が眠る墓が、
目の前に見える病院だった。

不思議すぎるくらい。
すべて必然だったかのように。

言葉とは裏腹に、
母は最期まで、父と共に、生きたのだろうと思うと、口に出せない思いもあったのだろうと感じた。

ワタシがかつて
寂しいとは言えなかったクリスマスやお正月のように。

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