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「タイミング」と「成功」について学んだ日

これを見ました。

てるいさん、昨日でも、今日の昼間でもなく、ぎりぎり無料公開期間が間に合う時間に送ってくださって、本当ありがとうございます。

中身の説明は、どこかのサイトに譲ります。自分にとって必要だった事柄をメモします。

本来の自分を取り戻す

このドキュメンタリーの結論は、これです。

旅の結末は、本来の自分を取り戻すこと。子供のころから触れてきた文化や用意されている道からはずれ、自分の内側にある可能性に気づくこと。

可能性

「可能性」の可能性が見つかるとき。

それはしばしば、危機を伴うそうです。絶望のあとに、やってくる。

「危機」とは、「Danger=危」+「Opportunity=機」ですよね?

ピンチはチャンス。次のバージョンの自分になる、ドアが開く瞬間があるのだそうです。

全ての物事の帳尻が合い始める

今まさに、この映画そのものが帳尻を合わせにきてくれた気がしています。

これまでのあらゆる挑戦、数か月前に読んだ本、映画を見る直前の、お風呂の中の思考まで。

Sense of Energy 

内なる衝動。

1か月以上ーーそしてまだ少し引きずっているーー、内側からの情熱がない状態。内側から自発的に湧き上がるものがないことのつらさ。

これを実感したからこそ、このフレーズがいかに幸せなものかを感じるのです。

Sense of energy. 

ありのままの自分を認め、自分だけのパッションを見つけることの幸福さ。

脱皮しない蛇は死ぬ

古いものを捨てないと、新しいものはやってこない。

物語でいう死のモチーフは、「変化」なのだそうです。

可能性を殻に閉じ込めるのは、怖れ。

怖れとは、周りにどう思われるのか。

誰も気に入ってくれないんじゃないか。

生計を立てるのは難しいと反対されること。

「自分自身を取り戻す」いちばんの壁になるのはこうした「怖れ」=人にどう思われるか、なのだと言います。

ミスコン挑戦時代はまさに、どうしても「殻を破れない」と悩んでいました。そこに立ち向かう、確固たるものがまだなかったんだろうなと思います。

勇気

怖れを乗り越えるには、まず怖れに気づくこと。

でも、怖れはどこかにいってしまうわけではない。

だから、前進して、共存して、怖れを対処する。

それこそが勇気。

身体を強くするときに筋トレをするのとちょうど同じで、心を強くするためには何度も挑戦すること。

立ち向かい続けると、コンフォータブルゾーンが拡がってくる。

怖がってもいいんだそうです。それは、間違いじゃない。

人生において幸運なのは、「自分自身であること」。

至福を追求せよ。

このドキュメンタリーの最重要メッセージです。

至福とは、happiness でも pleasure でもない。一般的な「成功」でもない。

他人に決められたものでもなく、自分にしかわからない。

ハートの声をきくこと。ひらめき。ときめき。

本当の自分を見つけたいという内なる衝動についていくこと。

不満だらけの人生から、満足した人生へ。

表現

たびたび、「本来の自分」と同義語に近い文脈で出てきたことばが「表現」でした。

本来の自分を取り戻したとき、ひとがすることは、やっぱり「表現」なんだと思いました。

これは、たしかに、太古からいろいろな形で残っているものなのだろう。スポーツ、音楽、ダンス、絵画、文学、などなど。

表現したいことはなんだろう。

宇宙とつながる

ありのままの自分を認め、愛することになる、それはパワフルな瞬間だ。あなたと宇宙とを直接つなげるのだから。

のような一文がありました。

これは、潜在意識やタロットカードのメカニズム、ハワイのホ・オポノポノというスピリチュアルな習慣ともつながるのではないでしょうか。

本来の自分を取り戻すという意味で。

以上です。

わたしは、ここに大きな気付きを2つもらいました。

ひとつは、①「タイミング」が存在するのだということです。

「至福を追求し、本来の自分を取り戻す」という1つのルールがあるなら、なぜ誰もが「英雄」になれないのか。

答えの一つは、映画中にも出てきました。

文化やルールです。文化やルールという心地よい集団催眠のなか、それをひきはがして本来自分が何をしたいのか、目覚めの瞬間を、誰もが持つわけではありません。

自分なりにもう一つ思ったのは、タイミングです。過去の色々なことが重なって、メッセージを受け取れたり、サインに気づいてひらめいたりするのだと思います。過去の経験はもちろん一人ずつ違うので、同じことが起こっても、そのメッセージの受け取り方も変わってくるのだと思います。

現にこの映画を父と二人で観て、観終わった瞬間、感想が真逆で、口論のようにもなりかけました。

わたしにとってはこの映画そのもの、このタイミングで観られたこと自体が操作されていたのではないかと思われるほどの幸運で、「タイミング」でした。

それまで置いてきたドットはひとり一人違うもの。だから、宇宙のルールは一つでも、気づくタイミングは速かったり遅かったり、あったりなかったりするもので、他人がコントロールできるものではないのだと思いました。

仮説の筋道

これほどこの映画に思い入れが発生した理由は、共感でもインスピレーションでもありません。

新しいことを学んだのではなく、わたしの仮説に筋道を立ててくれたからです。

ここ2か月ほどかけて考えていたこと、今日考えていたこと、今日のお風呂で見る直前まで考えていたことと。2か月前に読んだ本。

もし、今日考えたことをこれからわたしが実行していくとしたら、それはこの映画によるものではなく、その直前にわたしがお風呂で考えたことがきっかけだということを忘れたくはありません。

個人の成功

映画からの2つ目の気づきは、②成功=「社会的な成功」ではなく、「個人の幸せ」なのだということです。

もしくは先ほどの問い「1つのルールがあるなら、なぜ誰もが「英雄」になれないのか」に対する答えのもう一つかもしれません。この映画でいう「英雄」の定義そのものについて、認識を改める必要がありました。

成功とか、成長とか、売上とか、目標とかに飽き飽きしていたわたし。

この映画は、「成功」という言葉を使ってはいたものの、それは登場人物たちが世間的に成功したことではなく、本来の自分に出会えたことを「成功」もしくは「個人的な成功」と呼んでいたことです。

ここ数か月の試行錯誤と、この映画を照らし合わせて考えたときにおもったことは、「めざすべきは『外から見える成功』ではない。自分の至福、本来の自分、幸せ、パッション(ウニヒピリ=インナーチャイルド)だ」ということです。

「英雄」になる一つのルールがあるなら、なぜ誰もが「英雄」になれないのか?
そんなに偉そうにしゃべるなら、なぜここに出てくる人たちはみんな「超有名」じゃないのか?

それは、至福の状態、自分自身が心から満足した状態は外から見えず、なにものでも測れず、それを人は一般的に「成功」とは呼ばないからです。

これに気づけてよかったです。

あまりこの映画にとらわれすぎず、影響されすぎず、自分の道を進んでいこうと思います。

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