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結果を出す前にいろいろ語ってるのには、理由があるんです

なんで、まだ人に語るような結果を出しているわけではないのに人様に発信しているのか。それは、自分があるていど発信力がついたときにみんなにナマの過程を見てほしいからだ。

「フツーの人」が何かを得るまでには必ず感情のゆらぎ、決定、試行錯誤をしていて、そして単純にリサーチしている時期もある。

わたしが試行錯誤したり、情報収集をした時間を言語化していくことで、誰かの実際的な役に立てたり、勇気を与えられたり、同じものを目指そうと思ってくれたらいいなと純粋に思っている。

昨日の夜中に編集者箕輪さんの「死ぬこと以外かすり傷」を読んだ。

圧倒的な結果を出した人の話を、人は読む。でも、「すごい人」がすごくなってから「私だってこんなつらい時期があったんです」「僕だって泥臭い下積みが何年もあったんです」と本の中で語っても、結局「すごい人ってつらい思いしてんだな」と一般化してしまう。かもしれない。

「自分はもともとすごい人じゃなかったんです」というのは謙虚がっていっているのではなくて本当に「フツーの人」だったから言っているのだけれど、「じゃあ自分もやってみよう」と感情が揺さぶられるわけではない。読んだあとは多少モチベーションがあがっているとしても。

自己啓発本にどんなに同じことしか書いてなくても売れるのは、みんなピンときてないからだ。 私だってそうだ。ページを折って、マーカーをひいて、心を揺さぶられたとしても、結局「すごい人」と自分の間の溝を埋めきれていない。自分が「あっち側」にいるイメージがつかないので、行動するまでには至らないのだ。


留学時代のブログや日記を見ると、そのときの自分にしか書けないことがたくさん書いてある。


毎日何か書いていれば今頃かなり読まれてただろうに、と思う。大学4年間の一喜一憂と、誰も何も教えてくれないなか海外進学について猛リサーチをした高校の2年間を含めたら、6年分。

「がんばってる最中、獲得してる最中」にすべてをさらしておくことで、価値になる。誰かのためになる。と思っている。

高校生は毎年毎年進路選択に悩む。だから、イギリスの大学を卒業した1年が経った今でも、自分自身はどんどん高校生(だったとき)から歳が離れていっても、「共感できて涙が出ました」「勇気が出ました」「不安です」と連絡をくれる人がいる。

イギリス大学卒業までのその6年間を掘り起こすことももちろんやっていきたい。でも同時に今の自分が何かを得ていく過程を発信していきたい。

それは、誰かに見られたら恥ずかしい。「目指します」といって「なれませんでした」とはあまり言いたくない。

ミス・ユニバースに関しては、「わたしは自分で思ったほどキレイじゃなかったみたいです」っていうちょっとセンシティブな内容だから尚更だ。しかも自分でコントロールできる範囲は限られているのだから、恥ずかしい思いをする可能性は高い。

でも、きっと「何かにたどりつくまで」やれば、数年後には価値をもっているかもしれない。だから、はじめたばかりの今、書く。

うちの社長は「日本をバイオジェット燃料先進国にします」と言っている。で、かっこいいのは、「必ずやります。できるまで、やりますから」。

今わたしが書いているのも、きっと同じ効果がある。何者かになるまで、何かにたどりつくまでやりますから。

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