ままならない6月

わたしは今、6月の只中にいて、カレンダーの赤い数字を指折り数えている。
祝日がない、じとじととした「陰」な存在の6月を、どう乗り越えるか考えているのだ。
2人で暮らす、ということ自体は案外できていることに驚く。窒息しそうになるかと思いきや、意外とそんなことはなかった。けれど、自分の声を聞く周波数が整わない。奥底の自分が、何を求めて、何に向かおうとしているのか、聞きたくても聞こえないのだ。まるで、チューニングの合わないラジオのつまみを永遠と回し続けているみたいに。

今日こそは!と車を走らせ、近くのスタバに来た。ノートとペンだけをかばんに入れて。珍しく本を持ってこなかった。他人の言葉に惑わされたり、飲み込まれたりしてしまわないようにしたかったのだと思う。
コーヒーの苦味と酸味が、窓の外が暗くなるのに合わせて変化するのを感じる。すごく久しぶりの感覚だ。遠い記憶が刺激され、夢を描いていた過去の自分を思い出す。今も同じ夢をみているのだが、あのときと同じ細胞は、一つとしてなくなっていることだろう。

ここ数ヶ月、身の回りではいろいろなことが動き、わたしの足元を、頭上を、脇の下を通り過ぎていった。そのたびにわたしの心は揺れ動くが、秤の針のように、しぶとく0に戻ってくる。要は、現状維持だ。どこかで、「現状維持とは、後退である」と聞いたことがあるけれど、今のわたしはまさにそれなのである。
自分の乗っている自転車のギアが、重くなったり軽くなったりして、いまいち乗り方がぎこちない。乗った自転車のせいにしたくなるが、それを選んだのは自分なのだ。例えば、今週は自炊をしていない。なぜなら、彼がほとんど飲み会だったから。振る舞う対象がいなくなった途端、わたしのギアはどんどん軽くなり続け、もういいやと充実した食事を簡単に放棄してしまう。あれこれの「ん?」という自分の選択に対するひっかかりが、ギアを重くさせたり軽くさせたりする。それでも日々は過ぎてゆき、当たり前のようにやってくる朝に、同じものを食べ、同じことを考えている現状について考える。

そうしてカレンダーと睨めっこをしていると、いろんなことに気づく。1年の半分が終わった事実。彼と住む日々が日常になっていること。毎年思うが、とてもじゃないけど時間が経つのが早い。あらゆることがままならない6月の真ん中で、小学生のバタ足のようにジタバタとしている。

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