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【連作短編】はざまの街で #8最終話 月光山

 その日も晩秋の青空が広がっていた。
 窓を開けると澄んだ空気に乗って、細かい音まで街を浮き彫りにするように届いてくる。
 郁美の様子が心配で、志郎と田辺はランチタイムの郁美のカフェに顔を出すと店内は満席だった。郁美が厨房で忙しそうに動きまわっている。
「ごちそうさま」
 厨房に声をかけた女性の二人組が席を立つ。
「ありがとうございました!」
 郁美は元気にそう挨拶すると入ってきた志郎と田辺に気がついた。
「あら、志郎くん、田辺さん、いらっしゃい」
 いつも通りの笑顔に志郎は少し拍子抜けがした。その背後で入り口のドアのベルがカランコロンと鳴る。
「いらっしゃいませ!」
 厨房とテーブルの上の食事が済んだ皿を交互に見る郁美の表情を察して、
「手伝いますよ」
と田辺が皿をまとめ始めた。
「あ、ありがとうございます」
「僕も手伝うよ」
「ありがとう志郎くん。それじゃサラダお願い」
「オッケー」
 珍しく忙しいと笑いながら郁美がフライパンを振る横で志郎はサラダを盛り付ける。その後ろの洗い場では田辺が下げてきた皿を洗いながらホールの仕事もこなす。
「田辺さん慣れてますね」
「学生時代はずっと居酒屋でバイトしてましたからね。ハハハ」
 それから二時間客は途切れず、三人は夢中で目の前の仕事をこなした。

「ふぅ、ありがとう。助かったわ〜」
 郁美がエプロンを外して窓際のテーブルの席に突っ伏すように腰を下ろす。
「忙しかったね」
「こんなの初めてよ。どうしちゃったのかしら。それにしても田辺さんの動き、お見事ね。毎日来て欲しいくらい」
 田辺が照れ笑いを浮かべる。
「働いて感謝されるなんて久しぶりだなぁ。やっぱり感謝されない仕事なんておかしいんですよね」
 志郎と郁美には、田辺が閑職で辛かったことを思い出しているのだと分かった。必要とすること、されることは人間にとってどれだけ大切なことか、ふたりはここで多くの人から学んだ。
 簡単なものでごめんねと言って、郁美が三人分のペペロンチーノを作って遅い昼食をとった。
 食後のコーヒーを飲みながら三人は疲れをあらわに宙を眺める。志郎は忙しい時から郁美の様子を見ていたが、頭痛が続いているわけでもなそうもなので安心していた。
「あのう、良かったら明日から手伝いに来ましょうか?」
 田辺が郁美の顔を見つめて申し出る。
「のんびり疲れを癒すといっても、ただ暇にしてるのもナンですからね。郁美さんが良ければ、ですが」
 郁美は嬉しい顔を隠さずにすぐに答える。
「嬉しい!助かるわぁ。志郎くん、良いかしら?」
「もちろん」
 郁美の心配がまだ消えない志郎にとっても好都合だった。

 次の日から志郎と田辺はランチタイムの手伝いに郁美の店に通った。
 最初に手伝った日ほどではないが、郁美の店はなぜか忙しい日が続いた。
 田辺はホールと洗い場を手伝い、志郎は特別忙しい時は厨房に入るが、それ以外はウッドデッキの修理やペンキ塗り、普段手が届かないところの片付けなどをした。その間、郁美はいつもの郁美に見えていたので、志郎はすっかり不安を取り除いていた。
 四日目のランチタイム後の休憩時間に、志郎は気になっていたことを郁美に訊ねた。
「郁美さん、最近、来栖さんがここに来たのはいつ?」
 郁美が宙を見つめながら記憶をたぐる。
「そうね、そういえば一週間くらい来てないわね。どうして?」
「うん、田辺さんを連れてきてくれた時だから、五日前かな、うちに来た時に気になることを言ってたんだよ」
「気になること?」
「うん。俺がいなくなったら郁ちゃんを頼むって」
 それから志郎はその時の様子を郁美に語った。階段を降っていく栗栖にもう会えないのではないかと感じたことを。
「連絡は取れないの?」
「それがね、こうなってはじめて来栖さんの電話番号も家の場所も知らないことに気がついたんだよ」
 郁美の問いに志郎は苦笑いで答える。
「あ、ミヤさんなら」
「僕もそう思ったけど」
「そうね、ミヤさんも連絡先が分からないわね」
 ふたりはミヤともしばらく会っていないと話し、とにかくまた会えると信じて待つしかないと頷きあった。

 急ぐ必要もないので、家までの道をいつもより遠回りしながら、ゆっくりとシトロエンを走らせる。エアコンがない車なのでこの時期のドライブが一番快適だ。
 田辺は窓を全開にしたドアの上に腕を乗せ、顔を半分外に出して目を細めながら風を受ける。少し後退した額から生える白髪混じりの髪が揺れている。
 ここ数日、郁美の店の手伝いに行っていたが明日は定休日だ。田辺とどこかドライブに行くのも良いかもしれないと志郎は考えていた。
「志郎さん、そういえば今朝、港の方から電車の音が聞こえたんですが」
 流れていく森の木々を眺めながら田辺が訊いた。
「ああ、商店街と港の間に駅があるんですよ」
「ということは電車で他の街にも行けるんですか?」
 志郎は田辺と少しだけ視線を合わせ、もう一度前を向くと「さぁ」と軽く首を捻った。
「乗ったことはないんですか」
「はい、来栖さんはあの駅から蒸気機関車に乗ったそうです」
「え?蒸気機関車?それでどこに?」
 田辺が驚いて志郎の顔を見つめ、その顔を志郎は微笑みで受け止める。
「それがね、僕も訊いたんですが、乗ってみれば分かるって」
「乗ってみればって」
 田辺がここに来て電車の音を聞いたのは今朝の一度きりだ。
「乗りたい人が駅に行けば、電車が来るそうですよ」
「本当ですか?それじゃ志郎さん」
「はい?」
 再び田辺の顔を見ると目が輝いていた。
「明日、乗りに行きましょうよ」

 まだシャッターが閉まったままの商店街を抜ける。
 今朝はまた寒さが増したが、志郎と田辺は早起きをしてふたつずつのおにぎりを握った。そのおにぎりとお茶のポットが入った小さなリュックサックは田辺が背負っている。
 田辺はいつもより足早に「こっちですよね?」と後ろの志郎に道を確認しつつ進んでいく。まるで遠足に出かける子供のようだと志郎は笑顔を浮かべたまま歩いた。
 駅に着くと駅員のいない改札口の隣の売店は営業中で、店先に並んだ商品を見て田辺が驚きの声を上げて駆け寄った。
「あ!お茶ですよお茶!」
 お茶の何が珍しいのか分からず、志郎は田辺の後ろから売店を覗く。
「ほら、これですよこれ」
 田辺が指し示したのは白いプラスチック容器だった。表面にお茶と浮き彫りがされていて、細い針金が持ち手のように半円を描いている。
「これはね、ポリ茶瓶っていうんですよ。私が子供の頃にはペットボトルのお茶なんてなくて、旅行に行く時は駅の売店でこれを買ったもんです。親父の時代は瀬戸物だったみたいですけどね」
「へぇ」
 志郎には初めて見るものだったが、なぜか懐かしい雰囲気があった。
「あ、こっちは冷凍みかん」
 店の端にある冷凍庫から田辺は赤い網に入って冷凍されたみかんを取り出した。
「これも懐かしいなぁ」
 はしゃぐ田辺を、頭に手拭いを巻いた売店のおばちゃんが微笑ましく眺めている。
「田辺さん、買っていきましょうよ」
「良いですね。でもお茶はポットがあったか」
「良いじゃないですか、買っていきましょう」
 田辺が笑顔で頷いてポケットを探る。しかし財布がないことに気がついた。
「あ、そうか、ここにはお金は無いんでしたっけ」
「はい、そうですよ」
 志郎はそう答えて売店のおばちゃんに視線を移すと軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。行ってらっしゃい」
 売店のおばちゃんの笑顔に見送られ、ふたりはホームに出た。駅名表示や時刻表の類はどこにも見当たらなかったが、ベンチの背もたれに描かれた薬局や銭湯の広告、改札横の大きなこけしの置物が旅情をそそる。
「いいなぁ、田舎の駅ですねぇ」
 ふたりがベンチに座ろうとすると微かにカタンカタンという音が聞こえてきた。田辺はレールの近くに寄って片手を庇のようにしながら、右、左と顔を向ける。やがて南の方に電車が見えてきた。
「志郎さん、見えてきましたよ。乗りたい人が来れば電車が来るって本当だったんですね」
 やがて電車はヒューンというモーター音とガタンガタンというレールの音を響かせてホームに滑り込んできた。
「すごい!80系ですよ!」
 田辺が嬉しそうに走って先頭車両を追う。志郎も慌ててその後を追った。
 ホームに停車した電車の顔を見ながら、興奮を隠せない田辺が志郎に説明する。
「この二枚窓の流線型のデザインが良いでしょう?それと緑とオレンジの湘南カラー」
 すぐにホームに発車のベルが鳴り響いた。
「田辺さん、とりあえず乗りましょう」
 志郎が田辺の手を引いて車内に入ると同時に扉は閉まり、後方の車掌が鳴らす笛の音を合図に電車はゆっくりと動き出す。
 デッキから車内に入ると木と微かな油の匂いに包まれた。油の匂いは木の床からだろう。ボックスシートの座席は木でできていて光沢のあるニスが厚く塗られている。盛り上がった座面と背もたれの半分には、車体に使われている色と同じ緑色のモケットが張られている。
 等間隔に並んだ白熱灯の下を歩き、車両の真ん中あたりの席に向かい合って腰を下ろすと、田辺は木の窓枠にポリ茶瓶と冷凍みかんを置いて微笑んだ。
「まさに昭和の鉄道旅行ですよ。フフフ」
 それから田辺はこの80系電車についての蘊蓄を語った。昭和25年から東海道本線の顔だったこと、緑とオレンジは静岡の名産であるお茶とみかんの色にちなんでいること。
「東京駅を出ると横浜、それから湘南の海、そして熱海に伊豆半島という観光地。さらに先に行くと静岡です。その頃には富士山も大きく見える。子供の頃、うちは商売をしていましたから、遊びになんて連れて行ってもらえなかった。だからこの電車はまさに憧れでしたよ」
 嬉しそうに語る田辺を見ながら、志郎は「そうか」と口を開いた。
「何がです?」
「つまり、乗りたい人の乗りたい電車が乗りたい時に来るということですね」
「なるほど、夢みたいな駅ですね」
 進行方向の右側には朝の光を反射する海が広がっていて、反対側は稲刈りが終わった田園地帯。その向こうには森が続き、さらに向こうには一段と高い月光山の山頂が顔をのぞかせている。
「とにかく、頂上に登らせてはダメ」
 突然、志郎の脳裏にミヤの言葉が蘇った。愛子ちゃんと武さんを迎えに行く時にミヤさんが言ったことだ。それはどういう意味なのかまだ聞いていなかった。
「郁美さんも来られれば良かったんですけどねぇ」
 田辺が車窓に映る景色を眺めたまま呟く。
 昨夜、志郎は郁美の家に電話をかけて一緒に電車に乗りに行こうと誘った。
「ごめん、ちょっと疲れちゃったから、明日はのんびりしてるわ」
 遠くに見える月光山と郁美の少し疲れた様子の返事、そしてミヤのあの言葉が重なり、志郎は心の奥に小さな不安が浮かび上がってくることに気がついていた。
「志郎さん」
 田辺が冷凍みかんを差し出す。
「美味しいですよ。それとこのお茶も」
「ありがとうございます」
 それから田辺は「ちょっとごめんなさい」と言って立ち上がり、窓の両端にあるレバーを押さえて持ち上げ、窓を半分まで開けた。
 カンカンカンと踏切が音量を上げながら近づいてきて、音程を一段下げて後ろに消えていった。線路と海の間には二車線の道路が並行していて時々車とすれ違う。
 電車は短いトンネルをくぐると再び海に飛び出した。それを何回か繰り返すと海から少し離れたようで、乾燥のためにぶら下げられた稲穂が並ぶ田んぼの中を走る。
 アナウンスがないのでこの電車がどこに向かっているか見当もつかないが、それに対する不安が一切無かったのは、来栖の「乗ってみれば分かる」という言葉があったからだ。
 次に現れた踏切には老婆と孫らしき坊主頭の男の子が手を繋いで立っていて、すれ違いざまに男の子が手を振った。志郎と田辺もそれに応えて手を振る。
「良いですね」
 田辺が目を細める。
「長閑ですね」
「この風景も良いけど、あなたたちも良い」
 いつの間にか田辺が車窓の風景から志郎に視線を移していた。
「志郎さん、あなたと郁美さん、そして来栖さんですよ。お互いに思いやっていることがよく分かる」
 志郎は何と応えたら良いか分からず、黙って田辺の言葉を待つ。
「仲間というのか、それ以上に強いつながりを感じます」
「ふたりにはいつも助けられています」
「それはきっとお互い様ですよ」
 田んぼの畦道を老人が犬を連れて散歩している。青空に一際鮮やかに柿の色が映える。
「私はね、家族には恵まれたと思っています。妻には本当に感謝している。だけど仲間には恵まれなかった。内部告発したことは後悔していません。それにしても私は仲間たちを大切にしてこなかったように思う」
 黙って聞いている志郎を穏やかに見つめながら田辺が話を続ける。
「だからね、本当にあなたたちが羨ましい。次は私も仲間を大切にできる人間になろうと思いますよ」
 電車がトンネルに入った。暗闇と車内を隔てる窓にふたりの顔が映る。ガタンガタンとレールの音が大きく響いて、トンネルを脱すると再びカタンカタンという軽やかな音に戻る。
「来栖さんね、彼なら大丈夫ですよ」
 志郎の不安をそっと和らげるように田辺が言う。
「彼、無愛想ですけどね、志郎さんの家に連れて行ってくれる時、私が不安にならないようにいろいろなことを説明してくれました。私がすぐにここでの生活に馴染めたのは来栖さんのおかげです。その彼があなたたちを放って居なくなるわけがない」
「はい、僕もそう思います」
 ふたりは微笑んで深く頷きあった。
「さて、どうやらお別れのようです」
「え?」
 驚く志郎に、田辺は自分の手を上げて見せる。座席の背もたれの木目が透けて見えた。
「それじゃ、ありがとうございました。向こうで待ってますよ」
「はい、向こうで会いましょう」
 田辺が差し出してきた手を志郎は掴んだが、微かな感触を残して田辺の姿は完全に消えた。車内にひとり残されると、レールの音だけではなく、車両が軋む音、モーターの音など、様々な音が聞こえていたことに気がついた。
 志郎は窓を大きく開けて身を乗り出す。いつの間にか電車はまた海沿いを走っていて遥か前方に街が見えた。
 やがて電車はスピードを落としながらガタンガタンと巨体を大きく揺らし、ポイントをいくつか乗り越えたあと、ゆっくりとプラットホームに滑り込んだ。
 プシュッと音を立てて扉が開き、志郎がホームに降り立つ。
 そこは朝に田辺と乗り込んだホームだった。
 つまりこの電車はどこにも行かない。ここはやはりはざまの街なのだ。
 やがてその時が来るとみんなここを旅立っていく。来栖も郁美も、そして自分にもその時が来るのだと志郎は改めて思った。
「郁美さん」
 志郎はそう呟くと駆け出した。胸の中にあった小さな不安が大きくなりつつあった。

 階段を駆け上がり、家に入ると玄関にぶら下げてあるシトロエンの鍵を掴み、そのまま踵を返して車に乗り込む。
 不安はどんどん大きくなっていく。
 街を抜け、郁美のカフェに向かう山道に入ると車のスピードが無意識に上がっていく。シトロエンの細いタイヤがカーブでキキキーと音を立てる。道路の脇に積もった枯れ葉が舞い上がる。
「急げ、頼む」
 志郎は祈るような気持ちで愛車に語りかけるが、小さなエンジンはもうこれ以上は無理だと伝えるように轟音を響かせる。
 郁美のカフェに着いて急ブレーキを踏むと、車は横滑りをしながら止まった。すぐに飛び出した志郎の目の前に来栖とミヤが立っていた。
「来栖さん!今までどこに!」
「志郎、落ち着け、話は後だ。郁ちゃんがいない」
 志郎の不安は的中していた。そして志郎には郁美の行き先がどこなのか確信があった。
「月光山」
「そう、月光山に違いないわ」
 ミヤが頷く。
「ミヤさん、月光山にはいったい何があるんだ?」
 来栖の慌てた表情に志郎の不安はさらに大きくなっていく。
「月光山は魂が消滅する場所」
「消滅?」
「生まれ変わりたくないと強く望んだ魂は月光山に引き寄せられていく。そしてその頂上に達すると完全に消えてしまう。生まれ変わることもなく無に帰るのよ」
 驚きと焦りがごちゃ混ぜになった表情でふたりはミヤを見つめていたが、すぐに我に帰った志郎が叫ぶ。
「来栖さん!急ごう!」
「彼女の様子に気がつかなかったのは私のミス!お願い、郁美さんを連れ戻して」
 ふたりは大きく頷いてシトロエンに乗り込んだ。

「郁ちゃんはな、子供を亡くしている」
 月光山への未舗装路をシトロエンが跳ねるように走る。手すりにつかまりながら来栖が話し続ける。
「虐めを苦にした自殺だ。ミヤさんが言うには、郁ちゃんは息子が虐められていることに気がついてあげられなかった。それをずっと苦にしていたそうだ。本当はまだその時が来ていなかったのに思い出してしまったんだ」
 虐めという言葉に反応して志郎が呟く。
「田辺さんだ」
 来栖は志郎を見たまま言葉を待った。
「田辺さんにも虐められた経験がある娘さんがいたんだ」
「そうか、リンクしちまったんだな」
「僕は郁美さんの様子がおかしいことに気がついていたのに。あの時、もっとちゃんと聞けば良かったんだ。僕のせいだ!」
 志郎はハンドルを強く叩いた。さらに呻きながら何度も叩き続ける。車が大きく崖に寄った。
「よせ!志郎!」
 来栖が慌ててハンドルを掴んで進路を真っ直ぐに戻す。
「志郎、お前のせいじゃねぇ。誰のせいでもねぇ。郁ちゃんは大丈夫だ。必ず俺たちが助ける。な、そうだろう」
 ゆっくりと語りかける来栖の声に志郎は落ち着きを取り戻し、小さく力強く答えた。
「うん、絶対に助ける」

 登山口の山小屋にはバイクが乗り捨てられたように倒れていた。
「郁ちゃんのベスパだ」
 ふたりはそれを確認すると足早に登山道に入った。
 枯れ葉がすっかり落ちたブナの森に色は笹の葉の緑くらいで、シンプルな色合いも晩秋の山の魅力だが、ふたりにはそれを楽しんでいる余裕はない。
 登山道に階段のように張り出した木の根を踏みながら標高を上げていく。
 もうすっかり空気は冷たいのに、すぐに玉のような汗が額から次々に落ちていく。
 ふたりの息はすっかり上がっているが、それでも足を止めずに登り続ける。
 やがて大岩が連なる場所が出てきて、そこをよじ登ると森林限界に達した。背の高い木はなくなり、紅葉が終わった灌木と茶色く変わった草原に、大岩が転がる大地が広がっていた。
 どこまでも続く荒凉とした風景だが、不思議と恐怖感はなく、むしろ優しく包まれるような不思議さを志郎は感じながら、来栖と無言で淡々と登っていく。
 すっかり喉が渇いて呼吸も苦しくなってきたふたりの前に、輝くように清廉な流れの小さな沢が見えてきた。そこでふたりは身をかがめ、沢水で喉を潤した。
「志郎、俺な」
 荒い息のまま来栖が話しだす。
「全部思い出したよ。苦しかったことも全部。そして自分を許すこともできた。なんで俺たちがここにいるのか、その意味も分かった」
「え?そしたら、生まれ変わってここからいなくなるんじゃないの?」
 肩を上下させながら志郎が訊いた。
「本当はな。だけどミヤさんが頼んでくれた。志郎、お前と郁ちゃんにはまだ俺が必要だってな」
 来栖は志郎の顔を見ながらニヤッと笑った。
「だから郁ちゃんが消えるわけはねぇ。消えてもらっちゃ困るんだよ」
「うん、行こう!」
 志郎が力強く笑顔で言うと、ふたりは再び立ち上がって先を急いだ。

 頂上に近づくに連れて登山道は緩やかになっていったが、あたりは白いガスで包まれ、風がどんどん強くなっていく。
「どっちだ?」
 ふたりは目の前の道を確認するように足で辿る。
「郁ちゃーん!」
 来栖が歩きながら呼びかける。
「郁美さーん!」
 志郎も両手を口の横に置いてできる限り大きな声を出す。
「郁ちゃーん!」
「郁美さーん!」
 やがて目の前に一際大きく背の高い岩が、白いガスの向こうにぼうっと浮かび上がってきた。
 頂上はきっとあそこだと言うように、ふたりは顔を見合わせて頷き走り出した。
 大岩の全体が見えてくると、その根元に微かに金色の光を放つものが見えてきた。
 それは郁美だった。
 郁美の体からは金色の粒子のようなものが煙のように立ち上っていた。それに伴って足元から少しずつ色を失っていく。
「郁ちゃん!」
「郁美さん!」
「来ないで!」
 郁美の悲痛な叫びに志郎と来栖の足が止まった。強風が志郎と来栖の体をかがめさせ、立ち上がるのも大変な強さになっていく。
「私はもう生まれ変わりたくないの。生まれ変わってはいけないの」
 ゴーッという風の音にかき消されそうな郁美の声が届く。
「何を言ってるんだ郁ちゃん!」
 志郎と来栖が再び郁美に近づこうとすると、郁美の体から立ち上る金の粒子が濃くなっていき、体から色がどんどん抜けていく。それを見て来栖は再び手をついて立ち止まる。
「チクショウ、俺たちが近づくと消えちまうならどうしたら良いんだ」
「来栖さん!」
 志郎が来栖に自分の手を差し出して見せる。そこからは郁美と同じように金の粒子が立ち上り始めていた。
「頂上に近づくと俺たちまで消えちまうのか」
 自分からも立ち上り始めた金色の粒子を見つめながら、来栖は奥歯を噛み締める。
「郁ちゃん!良いか、よく聞け!俺たちがなんでこの街にいるのか、なんでこの街で役目を果たしているか分かるか!?」
 来栖が地面に手をついて強風に耐える姿勢のまま大声で問いかける。
「分からない…」
 俯いていた郁美がゆっくりと顔を上げ、震える声でひと言だけ答えた。
「郁ちゃん!考えろ!良いか、ここで癒されて生まれ変わったみんなが、郁ちゃんの生まれ変わりを望まないと思うか!?」
 その言葉に、郁美だけではなく志郎の脳裏にも、ここで過ごした人たちの顔が浮かんだ。
 一緒に潮干狩りをした優馬くん、絶品の中華料理を御馳走してくれた龍治さん。夢中で絵を描き続けた麗菜ちゃんに、ミヤさんに落とされてスカイダイビングをした拓海くん。弟を捜してくださいと尋ねてきた愛子ちゃんと、孫くらいの歳の姉と旅立った武さん。そして子供のようにはしゃいで電車に乗った田辺さん。
 志郎は田辺が最後に言った「向こうで待ってますよ」という言葉を反芻した。そうだ、きっとみんな向こうで待っていてくれる。生まれ変わって誰だか分からなくても、きっと僕たちは出会うことができる。
「本当に、良いの?本当に私は…」
 郁美が次第に落ち着きを取り戻し、表情が穏やかになると同時に風が止んだ。そして頂上の上だけガスが晴れて青空を覗かせた。郁美の顔が陽の光に照らされる。
 志郎と来栖が助かったのかと確認するように立ち上がった時、郁美から立ち上る金の粒子がどんどん多くなり、青空に吸い込まれ始めた。それと同時に郁美の体は見る見るうちに透明になっていく。
 志郎は咄嗟に郁美に向かって駆け出した。志郎の体から立ち上る金の粒子も一歩進むごとに増えていく。
「志郎!」
 来栖も慌てて後を追ったが、郁美と志郎の体は眩しい光に包まれ、目を開けることもできずに立ち止まるしかなかった。
「志郎!郁ちゃん!」
 志郎と郁美から溢れる光はひとつの大きな玉のように膨らんだ。その中を志郎は走る。志郎は眩しさを感じなかった。それだけではなく音も聞こえない。どっちが上か下かも分からず、手足を動かしても前に進んでいるのかどうかも分からない。郁美を呼ぼうにも声も出なかった。ただもがくように手足を動かした。
 どれくらいの時間が経ったのか分からない。それが一瞬だったようにも感じるし、何年もそうしていたようにも感じる。それでも志郎が手足を動かし続けると、うつ伏せになって倒れている郁美を見つけた。
「郁美さん!」
 志郎はそう叫んだつもりだったが、やはり声は出ていない。
 郁美のもとにたどり着くと、志郎は光る輪郭だけのようになった郁美の体を抱き抱えて強く抱きしめる。それ以外に何ができるか分からなかった。
 そしてまたみんなの顔が浮かんできた。それはどれも笑顔だった。志郎の胸から温かさが広がり、それは郁美にも伝わっているように感じて、志郎は知らずのうちに笑顔になり、そこで眠るように意識を失った。

 眩しく輝いていた光の玉は次第に小さくなっていき、来栖は目を開けられるようになった。
 あたりのガスはすっかり晴れて、頂上は青空に包まれていた。
 十メートルはあろうかという大岩が突き刺さるように立っていて、その下にうずくまるように郁美を抱えた志郎がいた。
「志郎!郁ちゃん!」
 来栖は溢れる涙もそのままに駆け出した。その来栖がたどり着くのと同時に志郎が目を開けた。
「来栖さん」
「バカヤロウ、無茶しやがって」
 言葉とは裏腹に来栖は笑顔を浮かべる。そして志郎の腕の中の郁美もゆっくりと目を開けた。
「志郎くん、来栖さん」
 ふたりは黙って笑顔を向けているが、目には涙が溢れている。
「私、良いのね。生まれ変わっても良いのね」
「当たり前じゃないか」
 志郎が郁美の体を揺すって答える。来栖は腰を下ろして郁美に視線を合わせる。
「郁ちゃん、俺たちはな、お役目を果たすことで救われていたんだよ」
「え?」
「人はな、人を救うことでしか、自分を許すことはできないんだ」
 ようやく来栖の言葉を理解した郁美が起き上がる。
「癒されていたのは私たちだったのね」
 志郎と来栖が笑顔で頷いた。
「郁美さん、来栖さん、帰ろう」
「そうだな、ミヤさんを早く安心させてやろう」

 はざまの街にも雪の季節がやってきた。
 街は白く覆われてあらゆる音を吸収していく。
 その間も、志郎たちのもとには疲れた魂を抱えた人たちがやってきては生まれ変わっていき、やがて雪解けを迎えた。

 森の中にある郁美のカフェの庭にはまだ雪が残っている。郁美は腰を下ろして、残雪の横に生えているフキノトウを収穫していた。
 そこにいつもどおりシトロエンに乗ってやってきた志郎を、立ち上がって出迎える。
「あら、ひとり?」
「うん。今朝ね」
 二週間ほどここで過ごした魂が癒されて生まれ変わったところだった。
「良かったわ」
「うん、郁美さんによろしくって。あ、それ、フキノトウ?」
「そう。天ぷらにしようかと思って」
「良いね」
 そのふたりの様子をデッキの席からミヤと来栖が眺めている。
「ミヤさん、そろそろ郁ちゃんも大丈夫なようだ」
「そうね、志郎くんもすっかり精悍な顔になったわ」
 ふたりはお互いにコーヒーを口にする。フキノトウを収穫するふたりの姿からミヤに視線を移すと、来栖が思い切って訊ねる。
「そうすると、俺たちもそろそろですか?」
「そうね、でも、まだもう少しいてもらおうかしら」
 頬杖をついて志郎と郁美を眺めたままミヤが答えた。
「どうして?」
「もう少しあなたたちと一緒にいたいのよ」
 ミヤは頬杖を外して、驚いた表情をしている来栖の目を見て悪戯っぽく笑う。
「そう、私のわがままよ。悪いかしら?」

<終>


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