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【連作短編】はざまの街で#5「トマトの冷製スープ」

(10,925文字)

ジィィィというアブラゼミの鳴き声が庭に響いている。欅の木のどこかに止まっているのだろう。ミンミンゼミや「シュワシュワシュワ」というクマゼミの合唱は昼過ぎになってから一段とボリュームを上げ、港の向こうには入道雲が盛り上がっている。
まとわりつくような湿気を飛ばすために、志郎は開け放った縁側で扇風機をまわす。
すだれの隙間から入る日差しには暴力的な熱気が感じられ、エアコンのないこの家では夏から逃れることはできないということを受け容れざるを得ない。
志郎は扇風機に顔を近づけ、汗を飛ばしてから座椅子に座り直し、本を読み始めたが、ものの5分で再び汗が噴き出してくる。
もう読書は諦めようかと思っていると、玄関脇に置かれた黒電話のベルが鳴った。
「おう、俺だ」
受話器の向こうからは案の定、来栖の少し苛立った声が聞こえてきた。
「今、階段の下の電話ボックスなんだけどさ、夏の電話ボックスは地獄だな。とにかく迎えにきてくれ」

家のある高台から、下の大通りまでの階段を降りる。所どころ塗装が剥げて錆が浮いた鉄の手すりも熱くて掴んでいられない。少し急ぎ足で階段を降りていく志郎を見つけて、来栖が軽く手をあげた。
「だいたいさ、なんでお前の家はあんな高台にあるんだよ。こう暑くちゃ、この階段を登る気にならないだろうが」
「そんなに暑いなら、その黒のジャケット脱いで、アロハシャツにでもすればいいのに」
来栖は汗だくなのに、いつも通り白いシャツにノーネクタイで黒のジャケットを着ている。
「うるせえな。これは俺のユニフォームなの」
そのやりとりを若い男がポカンと眺めている。来栖が思い出したように男の背中を軽く押して、志郎の前に行くように促す。
「中西拓海くん、まだ21歳だって。よろしく頼むな」
「中西です。よろしくお願いします」
頭を下げた拓海の後ろで蜃気楼が揺れる。
「ようこそ。しばらく気楽に過ごしてください」
志郎がそう言って右手を差し出すと、拓海は遠慮がちに握手をした。
その後ろで来栖がタクシーを止め、急いで車に乗り込んだ。
「俺は郁ちゃんのところでアイスコーヒーでも飲んでくるわ。じゃぁな」

志郎は拓海を家に招き入れると、いつも通りここへ来た人が過ごす2階の部屋に案内した。
「エアコンがないから暑いけど、夜は網戸にすると良い風が入るから寝られると思うよ」
そう言って窓を開ける志郎の後ろ姿に拓海が質問する。
「あのう、ボクはいつまでここにいれば良いんですか?」
志郎は振り返って拓海を見た。身長は175センチくらいだろうか。特段に美男子ではないが、清潔感があって好感の持てる若者だ。少し大人しい印象だが真面目さが出ているとも言える。
「特にいつまでって決まりはないけど、魂の疲れが癒えるまでかな」
「ボクはそんなに疲れているのでしょうか?」
確かに、ひどく疲れた様子には見えない。しかし、魂の疲れはもっと深いところにあるし、いくつかの人生を重ねて積もった疲れもあると聞いたことがある。
「心当たりはないの?」
「そうですね、強いて言えば失恋したことくらいでしょうか。でも、失恋なんてよくある話ですよね」
確かによくある話だが、失恋も人によってその重さは様々だ。
「とにかく、その時がきたら分かりますよ。それまでのんびりしましょう」
「その時?」
「そう、その時」
拓海はあまり納得がいっていないようだったが、わかりましたと言ったので、志郎は夕食の準備ができたら呼びますよと部屋を出た。

翌日も朝から暑く、日が昇った時にはもうセミたちが鳴き出していた。
「おはよう。眠れた?」
階段を降りてきた拓海に志郎が声をかけた。
「おはようございます。おかげさまで眠れました」
にこやかに答える拓海の様子に、志郎は彼がここに馴染んでいけそうだと安心した。
和室に置いたテーブルにトーストと卵焼き、ソーセージとサラダを並べる。
「若い人はこういう朝食が良いかなと思ったんだけど、どう?」
「うちの朝食もこんな感じでした。懐かしい感じがします」
拓海は左手に持っていた四角い物をテーブルに置き、両手を合わせて「いただきます」と言うと、トーストにバターを塗りだした。
志郎はテーブルに置かれた、見慣れない銀色に光る四角い物を指差し、
「それ、何?」
と訊いた。
「あ、これですか?スマホですよ、スマートフォン」
「スマホ?」
「え?志郎さん、スマホ知らないんですか?」
驚いて一段大きくなった拓海の声に、志郎は少し気圧されるような表情で頷いた。
「そうか、こっちの世界にはないのかな。電話ですよ。いや、電話というか、電話もできるコンピューターって感じですね」
「コンピューターは一応、分かる」
「ゲームをしたり、インターネットで何か調べたり、友達のSNSを見たり、地図も入っているし、健康管理もできるし、財布でもあるし、まぁ、必需品ですね」
それから拓海は画面を見せながらスマホを操作し、志郎に説明した。
志郎は、拓海が言っていることの半分以上は理解できなかったが、現代人はみんな持っていて、これがないと不便な世の中だということは理解できた。
「でも不思議なんですよね」
「何が?」
「電話はやっぱり通じないんです。でも、インスタグラムやXというSNSは見れるんですよね。ポストできないんですが」
拓海はそこまで話すとサラダを食べ始めた。
志郎には、出てきた名前は理解できなかったが、とにかくテレビのように見るだけだということは理解できた。

朝食を済ませてから、涼しいうちにと二人で庭の草むしりと家庭菜園の収穫をした。
その間も、拓海は時々作業の手を休めてスマホの画面を見ていた。
そして少しするとスマホをジーンズのポケットにしまい、再び草むしりを始めるが、やはり少しの時間が経つとスマホの画面を覗く。そしてまた作業に戻る。
志郎はその様子に何も問いかけることなく、トマトやきゅうりを収穫してカゴに入れていく。
2時間ほどで作業は終わり、志郎は外の水道で手を洗うついでに頭から水を被って汗を流した。
「ひゃ〜、冷たくて気持ち良いよ。拓海くんもやってごらん」
「いや、ボクは大丈夫です」
「そう?気持ち良いのになぁ」
志郎はタオルで髪を拭いながら「じゃ、昼ごはんを食べに行こう」と言って、拓海を車に乗せた。

エアコンのないシトロエンで、郁美のカフェに着いた頃には、ふたりとも汗だくだった。
「あのポンコツじゃ暑いだろう?新しい車にしたらどうだ?」
店内に入るとカウンターに座っている来栖が声をかけた。
「でも、故障もなく走ってくれているんですよね。気に入ってるし」
そう応える志郎の後ろから、拓海が「こんにちは」と頭を下げる。ふたりはカウンターに近いテーブルに向かい合って座った。
「いらっしゃい」
郁美がふたりの前にお冷とレモンの輪切りが乗った小皿を置きながら言う。
「あ、郁美さん、彼は中西拓海くん」
「よろしくおねがいします」
少し照れたような様子で拓海が頭を下げる。
「よろしくね。じゃ、オーダー決まったら呼んで」
郁美が笑顔を残して戻っていくと、その後ろ姿を見ながら拓海は「綺麗な人ですね」と呟いた。
「そう?」
志郎がそう言うと、そのやりとりが聞こえていた来栖が、
「バカ、そういう時は、そうだねで良いんだよ」
と嗜める。
「何か言ったぁ?」
キッチンから聞こえる郁美の声に、志郎と来栖が声を揃えて「なんでもないよ」と応えたのがおかしくて、拓海は少し笑った。

ふたりが注文したカルボナーラが運ばれてくると、拓海はスマホを取り出し、写真を撮った。
「なんだいそりゃ?変わったカメラだな」
来栖が不思議そうな顔で質問する。
「来栖さん、知らないの?スマホだよ、スマホ」
訳知り顔で志郎が応える。
「スマホ?」
「そう、なんかいろいろできるらしいよ」
「いろいろって何だよ?」
「まぁ、いろいろ?」
「お前も知らねぇんだろ?」
そのやりとりに笑いながら、拓海が答える。
「カメラでもあるし、電話でもあるし、財布でもあるし、なんでもできる機械ですね」
カウンターの椅子から降りてきた来栖が、手渡されたスマホを興味深く眺める。
「へぇ、こんな小さいのにか?カメラのフィルムはどこに入ってるんだ?」
「フィルムはないです。デジタルなので、データですね」
「ふぅん、何言ってるか分かんないけど、郁ちゃん、これ知ってるか?」
来栖がカウンターの中で洗い物をする郁美に、スマホをかざして尋ねる。
「ああ、スマホ?知ってるわよ」
エプロンで手を拭きながら、郁美が志郎のテーブルに出てくる。
「志郎くんは知ってたの?」
志郎がカルボナーラを食べる手を休める。
「いや、実は知らなかったんだ。でも、今の向こうの世界だとみんな持っているらしいよ」
来栖が手にしたスマホを裏にしたり表にしたりして眺めながら、
「俺と志郎は知らないけど、郁ちゃんは知ってるか。どういうことだ?」
と呟く。
「考えられるのは」
黙々と食べていた拓海が手を止めて言った。3人が拓海に注目する。
「みなさん、生きていた時代が違うんじゃないですか?」
なるほどという顔で3人が顔を見合わせた。

「みなさん、生きていた時の記憶がないんですね」
食後のコーヒーを飲みながら拓海が質問する。
「そうね、でもスマホは知ってたわ。覚えてないけど使ってたのかもしれない」
そう答える郁美を、拓海のスマホで来栖が写真に撮る。
「俺は全く見た覚えがない。写真だってフィルムがなくてどうやって写ってるんだ?」
「来栖さんは写真というとフィルムなんですね。だとすれば、来栖さんが生きていた時代は今から3〜40年以上前、昭和の時代ですね」
「確かに俺が一番の古株だもんな。どれくらいここにいるのか覚えちゃいないけどな」
来栖と郁美は、自分が生きていた頃のことが思い出せずに、もどかしい思いを抱えて考え込んでいる様子だ。
「考えても仕方ないですよ。僕もなにも覚えてないし」
志郎がそう言って笑顔を見せると、ふたりも同意するように表情を柔らかくした。

それから拓海のこの街での暮らしは穏やかに過ぎていった。
志郎にも心を開いているように見えた。
しかし志郎は何か違和感を感じていた。
ここに来る人はみな、魂が疲れる何かを抱えている。しかし、拓海からはそれが感じられない。
あまりにも穏やかすぎる。
そして拓海ははしゃいだり、感情を荒げるようなことがない。
海に連れて行った時は、服を脱いで海に入ろうと誘っても「ボクはいいです」と断り、スマホで写真を撮るだけ。
山に連れて行っても、展望所の下に広がる風景に感動するでもなく写真を撮る。
そういえば、拓海は常にスマホを離さず、その画面を覗き込んでいる。
「何を見てるの?」
ある日の夕食の時、食べる手を休めてスマホを覗く拓海に志郎が問いかけた。
「あ、すいません」
「いや、良いんだよ、怒ってる訳じゃないよ。ただ、いつもスマホで何かを見てるから」
「あ、いや、ちょっと気になっちゃって」
拓海はそう言って再び食事を始めた。
志郎は、その「気になること」がここに来た原因かもしれないと思ったが、その時はそれ以上質問するのをやめた。

「はい、郁美さん。庭で採れたトマト」
ふたりは日課のように郁美の店に昼ごはんを食べに来ていた。
「わぁ、こんなに良いの?真っ赤で美味しそう。ありがとね」
カウンターでは来栖がアイスコーヒーを飲んでいる。これもいつもの光景だ。
この日はふたりとも、郁美が「2日煮込んだのよ」というカレーを食べた。
食後にアイスコーヒーを飲み始めると、来栖が自分のグラスを持って志郎たちのテーブルにやってきた。
「どうだい、ここの暮らしは」
「あ、はい、なんていうか、のんびりさせてもらってます」
拓海が頭を下げながら言う。
「それにしちゃ、なんだかこう、蓋をしているように見えるんだよな」
「蓋、ですか?」
来栖に言われて悩む拓海に、志郎が言う。
「そういえば拓海くん、なにか気になるってスマホを見てたけど、何が気になるの?」
「ええ、まぁ」
そう言うと、拓海は照れたように笑って俯いた。
「話したくないなら無理にとは言わないけど」
「いえ、むしろ聞いて欲しいかもしれません。聞いてもらえますか?」
「もちろん」
志郎がそう言うと、ちょうど自分のアイスコーヒーを持ってきて座った郁美も笑顔で頷いた。
「実は、元カノのインスタが気になっちゃって」
そこまで言って、拓海は来栖と志郎には伝わっていないかと思い、説明しながら話し始めた。

元カノっていうのは前に付き合っていた彼女のことです。インスタというのはインスタグラム。なんて説明したら良いのかな、みんなが普段の生活を写真で見せ合う場所ですね。
こういうご飯を食べたよとか、これを買ったよとか、こういうところに遊びに行ったよというような感じですかね。
その彼女と知り合ったのは交通量調査のバイトをしていた時です。ボクは大学二年、彼女はひとつ年上で三年生でした。
一週間、指定の交差点で椅子を並べて車の数を数えました。動かすのは手だけなので、ボクたちはいろんな話をしました。
彼女はちょうど失恋したばかりだったんですが、よっぽどその元彼、あ、前に付き合っていた男が好きだったみたいで、その人のことばかり話してました。
ボクが何か自分の話をしても、その元彼の話に繋げるくらいで、本当に好きだったんでしょうね。
ボクはそれがなぜか悔しくなってきちゃったんですよね。その男が良い人だって言われると、なぜか自分がダメな気がしてきちゃって。
それにね、そんなに想っているのに、幸せにしてくれないなんて、その男は本当に良い人なのかって。
多分、その時にはもう彼女を好きになっちゃってたんですよね。
そしてバイトが終わるときに、思い切ってLINEの番号を訊きました。あ、LINEっていうのは、このスマホで文字で話したり電話ができるアプリです。
そしたら教えてくれたんですよ。
それからは時々、ご飯を食べに行ったりするようになりました。
そして告白したんです。付き合ってくださいって。
答えはOKでした。

「良かったじゃない。あ、そのあと別れちゃうのよね。ごめんなさい。アイスコーヒーのおかわり作ってくるわね」
郁美はそう言って、空になったグラスをトレイに乗せてキッチンに戻って行った。
「しかしよくOKしてくれたな。その女は前の男のことがまだ好きだったワケだろ?」
来栖が腕組みをしたまま訊くと、キッチンから「ちょっと待って〜」と郁美の声が届いた。
3人は顔を見合わせて笑いながら郁美が戻るのを待った。
「多分そうですね」
拓海が来栖の問いに答える。
郁美が4人分のアイスコーヒーを持って戻ってくると、再び拓海が話し始めた。「彼女がまだ元彼のことを忘れられないのは分かってました。でも、付き合っているうちに忘れてくれると信じてました。そのうち、彼女はボクに甘えてくれるようになって、恋人同士になれたかなと思いました。でもどこか違うんですよ」
「違うって、何が?」
そう言いながら、郁美が自分のアイスコーヒーにミルクだけを入れてかき混ぜる。
「なんて言うのかな、ボクのエリアには入ってくるけど、彼女のエリアに入ろうとするとシャットアウトされるような感じですかね」
「シャットアウト?」
「そう、何か壁があるような。彼女は甘えてくるんだけど、甘えさせない。ボクが求めることはしてくれないという感じです。壁にはボクの部屋には入れて、彼女の部屋には入れないドアがあるような」
「一方通行なのね」
「そうですね。甘えてはくるけど、愛されているという実感が持てなかった」
郁美がストローをくわえたまま、しばらく考えてから口を開く。
「彼女は愛し方が分からなかったんじゃないかしら?」
「愛し方、ですか?」
「そう。愛し方が分からないのだとしたら、愛された経験がないのかもしれないわ」
郁美の言葉に、男たちは黙って続きを待っているようだった。グラスの氷がカランと音を立てて、郁美が話を続ける。
「愛し方って子供の頃に教わると思うの、親にね。それこそ無償の愛よね。愛されて嬉しかったから、相手も喜ぶだろうと思って同じことをしたくなる。でも、愛された経験がないと、相手が甘えてきてもどうしたら良いか分からない。分からないと苛立つし、不安にもなるじゃない?だから少し意地悪なことをして、それでも相手が自分を受け容れてくれるなら安心できる」
「なるほどな、自分を受け容れてくれることだけが愛か」
来栖が腕組みをしたまま相槌をうつ。
「それにしても郁ちゃん、なんでそう思うんだ?」
そう言われて、郁美は少し考え込んだ。
「なんでかしらね。多分、私にもそういうところがあるんじゃないかしら」
「愛された記憶がないのか?」
「それが分からないのよね。ホラ、私たち、生きていた頃の記憶がないじゃない」
「そうか、そうだよな」
来栖がそう言った後に、拓海が両手で抱えたアイスコーヒーのグラスに視線を落としたまま話し出す。
「そう考えると、彼女は可哀想な人だったのかもしれませんね。でも、ボクはそれが寂しくて、だんだん喧嘩も多くなっていきました。そして結局、別れようってボクが言ったんです」
「それで別れたのね」
「はい、本当はまだ好きだったんですけどね。で、その後、一週間くらいしてから彼女のインスタを見てみたら、前の彼とまた付き合いだしたのが分かったんです」
「そんなことまで分かるの?」
志郎が驚いたように言う。
「はい、ふたりで出かけた時の写真がアップされていて、その後ろ姿が、前に見せられた男と同じでした。悔しかったです。結局、ボクと付き合っている間も、やっぱり彼が好きだったんじゃないかって」
「別れた女が誰と付き合おうが良いじゃねぇか。その、なんだ、インなんとかっていうのを見なけりゃ良いんだ」
そう言う来栖を制するように、
「見たくなっちゃうのよね、分かる気がするわ」
と郁美が言った。
「そうなんです。分かってるんです。でも見てしまう。そして悔しくなる。でも不思議なんです」
「何が?」
「もう彼女のことが好きかどうかも分からないんですよ。でも気になっちゃうんです。そしてまた見て悔しくなる。何なんでしょうか」
「じゃ、それじゃないのかな!」
志郎が答えを見つけたというように晴れやかな顔で言った。
「スマホですか?」
「そう。なんで見たくなるか僕には分からないけど、何か良くない気がするよ。だから捨てちゃおう、スマホ。だってこっちからはもう何もできないんだし」
志郎の言葉に郁美も頷く。
「そうね、悲しいけど、もう拓海くんが彼女にできるのは、幸せになるように祈ってあげることだけだもんね」
郁美の言葉に、今度は来栖が頷く。
3人の顔を眺めながら、拓海の表情が次第に明るくなっていく。
「そうですよね、ウン。彼女がちゃんと愛せるように祈ってあげようと思います」
「そうね、愛せるようになれば、愛されるようになるものよ」
郁美は拓海の肩に手を添えて言った。
「ありがとうございます。なんだかスッキリしました」
拓海がそう言った瞬間、テーブルに置いてあったスマホが少しずつ透明になり、やがて消えていった。
「スマホが消えましたよ!」
拓海が驚き、目を見開いて大きな声で言う。しかし、3人は何か考え込んだような顔をしている。急にエアコンの音が大きくなって、思い出したように冷風を吐き出す。
「どうしたんですか?驚かないんですか?」
拓海の問いに、最初に応えたのは来栖だった。
「どうやら違うみたいだな」
「そうね、違うみたいね」
「じゃ、何だろうね」
3人が自分を見つめてそう言うので、
「何が違うんですか?」
と拓海は慌てるように質問した。志郎はアイスコーヒーを飲み干してそれに答える。
「拓海くんの魂の疲れが癒されたら、スッと消えて生まれ変わるんだよ」
「じゃ、やっぱり魂の疲れの原因は失恋じゃないんですね」
その時、カランカランとベルの音が鳴り、入り口のドアを開けて入ってきたのはミヤだった。
「彼は五感が眠っているのよ」
大きな帽子を外して胸に抱き、そう言いながらこちらに歩いてくる。白いワンピースを纏って姿勢良く立つ姿は、歳を感じさせずに凛として美しい。
「さぁ、行くわよ」
そう言いながら拓海を見下ろす。
「ミヤさん、彼をどこに?」
志郎の問いに、
「良いから、みんな付いていらっしゃい」
と答えてミヤが踵を返した。4人は慌てて立ち上がり、彼女の背中を追った。

「本当にやらなくちゃダメですか?!」
「ここまで来たんだから覚悟しなさい!」
セスナ機のプロペラ音に負けないように、大声で拓海とミヤが言葉を交わす。開け放たれたドアの向こうに雲が流れていく。
「だって、失敗したら死にますよね?!」
「大丈夫よ!もう死んでるんだから!とにかく、10秒数えたらそのヒモを引っ張りなさい!引いたら、両手で腰までぐっと引いて!分かったわね!」
ミヤはそう言うと、拓海の返事を待たずに背中を蹴飛ばした。すると拓海は機内に「うわ!」という声を残し、大空に落ちていった。

「お、出てきたぞ」
来栖が右手を庇のようにして空を眺める。小さく見えるセスナ機から点のように見える拓海が飛び出すのが見えた。
「大丈夫かしら?」
「パラシュートが開かないとどうなるんですかね?」
「そうだな、もう死んでるわけだからな。どうなるのか見てみたいな」
「何言ってるのよ、ふたりとも!」
郁美が日傘を振り回したので、来栖はそれを笑いながら避けた。

大空に飛び出した瞬間、ドキドキと高鳴っていた心臓の音が聞こえなくなった。
あれ?怖くない。
そう思ったとたん、パァっと視界が開けた。
遠くに見える山、広がる海、その向こうの入道雲。日は傾きかけているが、夕焼けにはまだ時間がありそうだ。世界の広さを肌で感じるような、初めての感覚に鳥肌が立った。
眼下には志郎たちが待つ広い草原と、その周りに広がる青く茂る夏色の森。森が切れた向こうには住宅街が海まで続いている。
「ハハハ、ハハハ、ワハハハ!」
拓海はなぜか笑いがこみ上げ止まらなくなった。志郎たちが待つ草原が近づいてくる。
あ、10秒以上経った!
慌ててヒモを引っ張ると、ガクンと体に衝撃が走り落下スピードが落ちた。
言われたことを思い出し、腰まで両手のヒモを引っ張ると、さらにゆっくりと落ちていく。
下で志郎たち3人が手を振っているのが見えた。
拓海は手を振り返そうと右手を上げると、途端にパラシュートは進路を左に曲げ、森へと突き進む。
「うぁ〜」
あっという間に森の木々が近づいてきて、パラシュートは枝に引っかかり、拓海は宙吊りになった。
志郎たちが駆け寄ってくる。
「大丈夫か!」
そう心配する3人の様子を笑うかのように、拓海の笑い声が森に響く。
「大丈夫ですよ!でもお願いします!降ろしてください!ワハハハ!」
梯子を持ってきて、なんとか拓海を降ろし終わった時、ミヤがやってきた。
「どうでしたか?」
拓海がミヤを見上げて、弾けるような笑顔を見せる。
「もう、なんて言うか、今までにない感じですよ。ハハハ。なんか笑いが止まらないです!」

5人が郁美の店に戻ってくる頃には、夕闇が迫る時間になっていた。
「お腹空いたわよね。何か作るわ。そうねぇ、志郎くんからもらったトマトは美味しそうだからシンプルな冷製スープにして、鶏肉があるからグリルでどうかしら?」
郁美がキッチンの中から皆に訊ねる。
「良いわね、私も何かお手伝いしましょうか?」
「いえいえ、ミヤさんはのんびりしていてください。代わりに、拓海くんに手伝ってもらおうかしら」
そう言われて、拓海は元気に「はい」と返事をしてキッチンに向かった。
郁美と拓海がキッチンでにこやかに料理をしているのを眺めながら、
「なんだか別人みたいですね、拓海くん」
と志郎がミヤに言った。
「そうね。眠っていた五感が起きたかどうかはこれから分かるわ」
キッチンからウィーンというフードプロセッサの音がする。
その蓋を押さえながら、拓海がこちらに笑顔を向けた。
「美味いのを頼むぞ」
来栖が頬杖をつきながらキッチンの拓海に声をかける。
「任せておいてくださいよ!」
窓の外はすっかり暗くなって、いつの間にかセミの声も聞こえなくなっていた。
「拓海くん、スープができたら先に出しちゃって」
郁美がオーブンの中の鶏肉をひっくり返しながら指示をする。
「はい」
そう言って拓海が持ってきたスープは、トマトの赤そのままにパセリの緑というシンプルな冷製スープだ。
「味付けは、塩と砂糖とオリーブオイルだけなので、トマトの美味しさがそのまま楽しめるスープです」
拓海がまるで店員のように説明しながらテーブルに並べる。
その後ろから、
「はーい、お待たせしました〜」
と、郁美が鶏肉のグリルとサラダが盛り付けられた皿をそれぞれの前に置き、拓海にカウンターの上にあるパンの籠を持ってくるように指示した。
「ウン、良い匂い!」
志郎が言うと、ミヤも来栖も笑顔で頷いた。
用意が整い、郁美と拓海もテーブルに着くと、
「それでは、いただきます」
とミヤが言った。他の皆もそれに続くように「いただきます」と言って、まずはスプーンでスープを口にした。
「美味しい」
「そうね、美味しいわね」
「志郎くんのトマトが美味しいのよ」
そう言いながら、4人は拓海の反応を待った。
拓海はもうひと口飲んでから目を閉じ、じっくりと味わった。それから目を開け、4人の顔を見ながら、
「美味しいです、こんなに食べ物を美味しいと感じるのは久しぶりかもしれません」
と、少し驚いたような表情で言った。
「それはね、あなたの五感が目覚めたからよ」
ミヤがスプーンを置いて答える。
「五感ですか」
「そう。人間はね、楽しい時には大いに笑って、悲しい時には思いっきり泣く。そうすると五感も敏感になって心が健康になる。心も体も健康なら、食べ物を美味しいと感じることができる。五感が眠っているということは、心にモヤがかかっているようなもの。そうなると本当の美味しさの半分も感じられなくなるものよ」
「それじゃ、ボクはもう大丈夫なんですか?」
「そうね、ほら、その時が来たみたいよ」
ミヤがそう言うと、拓海の体が少しずつ透明になっていく。拓海は自分の手を見てそれを確認すると、立ち上がって「ありがとうございました」と言いながら4人に頭を下げた。
「えー!鶏肉のグリルも食べてから行ってよ」
その郁美の言葉を置き去りにして、拓海の姿は見えなくなった。
そして4人の間に少しだけ沈黙が流れた。
「これからは、拓海くんのような子が増えるでしょうね」
ミヤが拓海のいなくなった椅子に視線を向けたまま言う。
「今はSNSで攻撃されて学校に行けなくなったり、自殺までしてしまう子たちがいる。悲しいことよね。彼らにとって現実は、楽しいことも辛いことも、あの小さな箱の中」
「そうか、五感は必要ないってわけか」
ミヤの言葉を聞いて、来栖がそう独り言のように言い、3人は食事の手を止めて俯いた。
「はいはい!そんな深刻な顔しないで食べましょう!美味しいものを美味しいと感じて、私たちの心が健康じゃないと疲れた魂を元気にできないわよ」
再び食事を始めた4人の間を、虫の声が微かに通り抜ける。暑い日が続いているが、確実に秋は近づいているようだ。

つづく







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