黄エビネが咲く庭で (第十七章 錯綜する思惑)
第十七章 錯綜する思惑
吉田たちは、松坂の仲介で、POC(Proof of Concept:概念実証)としてではあるものの、厚生労働省のNDB(ナショナル・データベース)にアクセス可能になり、レセプトデータを日本全国の規模で分析できるようになった。
その分析結果は随時厚生労働省に共有され、同省内の各会議体での議論に活用された。
吉田のインフィニティヴァリューのBIツールは、厚生労働省の中でも徐々に知られるようになった。
そのBIツールは、従来のビジネス用の表計算ソフトなどよりもはるかに大規模なデータを容易に扱え、クリックするだけというシンプルで使いやすい操作性であることと相まって、インフィニティヴァリューの評判を高めていた。
また、BIツールの良さだけでなく、得られたNDBの解析結果がこれまで厚生労働省の職員が見たことがない、詳細でわかりやすい解析結果だった。インフィニティヴァリューのBIツールを使えば、日本の医療の中で、どのような疾患にどのような課題があるのかが一目瞭然だった。
この解析結果は、厚生労働省による医療政策の立案や、診療報酬と薬価の改定内容の検討、介護制度と介護報酬の最適化の検討など、さまざまな課題について討議しやすくするものだった。
インフィニティヴァリューのBIツールの評判が、厚生労働省内で、特にNDBのデータ分析に関わる職員間にある程度高まったところで、松坂はそのBIツールがインフィニティヴァリュー製であることを口外しないように彼らに伝えた。
松坂は、インフィニティヴァリューのBIツールの良さを職員に知ってもらいたかったが、そのことを厚生労働省内に広く知らしめるのは時期尚早だと思っていた。
松坂は医療DX勉強会の席上で、デジタル庁が勉強会での実質的な主導権を握りたそうにしていることと、濱田と井出が蜜月の関係である雰囲気を感じ取っていた。
もし、インフィニティヴァリューのBIツールを厚生労働省が利用していることを濱田や井出に知られたら、デジタル庁から何らかの疑いをかけられるかもしれない。
松坂がインフィニティヴァリューと過度に親密だと濱田と井出にかぎつかれたら、濱田と井出がインフィニティヴァリューを妨害するような活動に出るかもしれない。
老獪な省庁間の主導権争いを嫌というほど見てきた松坂は、インフィニティヴァリューをその争いの中に不必要に巻き込んでしまったり、不利益を与えてしまうことだけは、何としても避けたいと考えていた。
「特に、井出は要注意だな」
松坂は、井出への警戒の念を強めていた。
デジタル庁の若手のホープ 崎本
一方デジタル庁では、長官の濱田を中心に話し合いが行われていた。そのテーマは、デジタル庁が医療DX勉強会の主導権を握るにはどうしたら良いかであった。
幸い、井出が第1回医療DX勉強会で他の省庁に対して謙虚に接し、デジタル庁がこの勉強会の雑務全般を一手に引き受けることに対して、各省庁からの了承も得られた。
次は、集約した情報を精査し、日本の医療のDX化に必要なデータが網羅されているかを確認し、不足しているデータを集めなければならない。
そのデータ関連の精査のために、井出はデジタル庁内の部下である崎本をこの作業の担当者の一人として選抜した。
崎本が元々医療DX勉強会の設立前に、IT業界の有識者を探す作業にも関わってくれていた。この勉強会の設立の趣旨も分かっている。
だから、この勉強会に集められた情報を整理・精査する時も崎本が適任だと井出は判断した。
崎本は、26歳の女性職員だ。デジタル庁の生え抜きの職員ではなく、民間企業からデジタル庁に出向している。
勤務先はDXを推進する外資系ITコンサルティング企業である。新卒で入社して3年間、先輩と一緒に様々な企業のDX化に取り組み、DX化したシステムの管理運営を担当する他、『デジタルツールやデータをどのように扱ってビジネスの作業効率を高めるのか?』をクライアント社内の文化として定着させるためのフォローアップまで、幅広い業務をこなし、様々な経験を積んできた。
クライアントとの会議時の崎本は、ファシリテーションが非常に上手かった。クライアントをプロジェクトに前向きに関わりたくなるように持ち上げながらクライアントが理想とする望ましい姿を見せ、そこに確実に計画通りにプロジェクトを進行させることができる、能力が高い若手のホープであった。
入社後の3年間の実績を高く評価された崎本は、勤務先から
「崎本には、民間企業とのコンサルティングだけでなく、官公庁との仕事も覚えて、今後の崎本のキャリアの上で良い経験を積ませたい」
との説明を受けて、デジタル庁に出向してきた。その出向先の上司が井出だった。
井出との付き合いの期間は短いものの、崎本は直感で井出のことを信頼できない人物と感じていた。
初めて井出に挨拶した時、井出の眼の奥底に言葉には出して言わないが何らかの意図を隠しているように、崎本には見えたからだ。
崎本は、ビジネスにおいて常にフェアに取り組むことを信条としている。そのため、同僚や同期からの信頼も厚い。曲がったことが大嫌いで、不正を見つけたら正す性格のため、上司や先輩によっては崎本を煙たがる人もいる。
崎本本人は、そのような自分の性格や人柄が時に他人から
「うざい」
と思われることを悔しがっている。
崎本は小さい時から、困っている人を見かけると放って置けなかった。これは崎本の父親の性格譲りでもある。
崎本の父親も定年間近ではあるが現役のビジネスパーソンだ。部下や同僚に気配りをして、困っている部下のためにさまざまな関わり方で部下をサポートしている。
そのような姿を見てきた崎本にとって、他の人をサポートすることは当たり前だった。
そのような崎本の性格や人をみるセンスからは、井出は本音を隠していて、自分のことを評価しているように見えていた。だから崎本は、井出のことを人としても上司としても好きになれなかった。
井出が崎本を今回の医療DX勉強会のサポートメンバーに選んだのは、崎本が持つビジネスセンスの良さと能力の高さが理由だ。
崎本自身も、自分にとって良い経験になるプロジェクトと思われたが、同時に自分が井出に利用されるんだろうなということも容易く想像していた。
とはいえ、崎本はデジタル庁でも医療DX勉強会でもまだまだ新参者だ。新参者は新参者らしく、当面は大人しくしていようと、崎本は考えていた。
デジタル庁濱田長官の迷走
デジタル庁長官の濱田は、総理大臣の太田からマイナンバーカードの不手際を責められて以来、それをなかなか挽回できずにいた。閣議でも発言できることが少なく、濱田はどこでも肩身が狭かった。閣議は濱田にとって針のむしろになっていた。
内心、他の大臣たちは
「デジタル庁がもっと日本のデジタル化を推進すべきだ」
と思っているし、濱田もそれを痛切に感じていた。
日本の政府が毎年公表している骨太の方針にはDXという文字が並んでいるから、濱田としてもなんとか骨太の方針に従って、様々な業界のDX化を実現したいと思っている。
しかし一方で、具体的なDX化の取り組みを様々な業界で加速させたくても、それぞれの業界の既得権益者が根強く反発してくる。
その結果、日本の多くの業界でのDX化が遅れてしまっている。
その煩わしさが、濱田を一層イライラさせていた。
諸外国と日本を比較すると、濱田の頭はさらに痛くなる。
諸外国がDX化を加速させている中、日本のDX化の遅れは日に日に目立つようになっていた。
円安環境における日本の不況の打破のための施策の一つとして、海外からのインバウンドを増やし、彼らから収益を得ることを日本政府は目論んでいた。
ところが、インバウンドから見れば、日本は支払いが不便な国だという印象を与えてしまっていた。日本国内の主なところではクレジットカードが使えるため、一見支払いに問題がないように見えているが、インバウンドからの評価は
「クレジットカードのタッチ機能が使えないので、電車や地下鉄に乗るのも大変だった」
「日本の商店の一部の店では、支払いは現金のみという店が未だにある。そのせいで欲しいものが買えなかったり、食べたいものが食べられなかった」
「もっとスマートフォンやクレジットカードのタッチ機能などが利用可能になって欲しい」
「日本って、思ったより不便だね。自分の国でできることが日本じゃできない」
という声が広がっていた。
インバウンドから見れば、日本は安価で良質な食、宿泊、品物、サービスを提供してくれるものの、支払いなどのさまざまな場面で不便に思うことはいくつもある国だった。
インバウンドが不便に感じてしまっては、インバウンドの旅行先として日本は魅力を損なってしまう。
さらには、現在はネット社会だ。良いことも悪いこともスマートフォンからSNSを通じて一瞬で全世界中に広まる。日本の不便さを感じたインバウンドがSNSにそのことを投稿したら、世界中の人々が日本を遅れた国だと思うことは間違いない。
これは日本として、見逃すことができない大きな問題だ。世界中の人たちから、
「日本は何もかもが遅れた国だ」
と烙印を押されてしまう。
逆に言えば、さほど高くない今の日本のDXとその利便性が、自分の采配によって諸外国並みに追いつくことができれば、日本はインバウンドにとってさらに魅力的な観光国に変貌でき、日本の経済の起爆剤の一つになってくれるかもしれない。そうなれば、日本全体への自分の貢献度は計り知れないだろう。
だから、このタイミングでデジタル庁の長官を拝命しているということは、自分にとってはチャンスになりうる。閣議でどれほど嫌な思いをしていても、このチャンスで挽回して、いずれ更に上のポジションを目指そう、あるいは党の幹事長の席を狙っても良い。
濱田はそのように思っていた。
そのような濱田の思いを、部下たちは薄々感じているようだった。
濱田が将来政治家としてどのようなポジションにつくかは、部下たちしてみればどうでも良いことだった。
デジタル庁に勤務する職員たちにとっては、長官が積極的にデジタル庁の取り組みを推し進めて、国から予算も確保してもらえるなら、それで十分長官の役割を果たしたことになる。
一見ドライな人間関係に思えるが、実際に仕事をして結果を出すなら、実利にこそこだわるべきだ。彼らの仕事への取り組み方からは、そのような思いが感じられた。
濱田は、デジタル庁が取り組んでいる各事業が一刻も早く社会実装され、結果を出すべく、庁内の各部門に指示を連発していた。
その指示に応じて、医療や教育、防災、地域の活性化など、それぞれの部門は自分たちの取り組みをひたすら推し進めていた。
濱田にしてみれば、結果が出ればそれで良し。
職員たちは、自分たちが企画して、やりたいことがやれて、社会の利便性が向上すれば良し。
立場が違うそれぞれの想いが期せずして一致していた。それが
「デジタル庁は積極的な活動をしている」
と閣議や各省庁からは見えていた。
しかし、デジタル庁の一部の職員からは
「濱田長官は、自分の手柄のことしか考えていない」
「濱田長官の指示は、朝令暮改になることがある」
「濱田長官には、自分たちの部門が手がけている取り組みの細かいところまで管理するのではなく、もっとデジタル庁がなすべきことを戦略的に方針にまとめて打ち出してほしい。残念ながら、それができないのが濱田長官だ」
と見透かされていた。彼らからは冷ややかな目で濱田は見られていた。そして、井出も本音のところではデジタル庁の職員を同じことを濱田に対して思っていた。
井出は、濱田に忠誠を誓っているようで、実は濱田を利用しようとしているに過ぎなかった。
井出は、濱田のことをそのように思っていると思われたくなかった。それが伝わったら、井出は濱田とのコネクションを失ってしまい、デジタル庁での仕事がやりにくくなる。そして、井出がエスタブリッシュシステムズから課されているミッションを失敗するリスクが高まるからだ。
だから井出は、それを感じさせないように井出は振る舞っていた。しかし、そのことも崎本は見抜いていた。
崎本は井出のことを信じていないし、井出には絶対に本心を知られないようにしようと一層用心深く振る舞うようにした。
それが功を奏したのか、少なくても現時点では、井出は崎本の本心を見抜いてはいないようだった。
それぞれの思惑を秘めながら、第2回医療DX勉強会の開催が近づいていた。そこでは、更なる邂逅が待っていた。
(第十八章に続く)
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