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黄エビネが咲く庭で (第六章 スマートフォン越しの母子)

第六章 スマートフォン越しの母子

 蒼生が母とスマートフォンのアプリ越しに顔を見ることができたのは、その頃のことだった。蒼生が父に頼んで、母の病室に入った時にスマートフォンのアプリでテレビ通話できるようにしてもらったのだ。
 蒼生の昼食の時間は、母のそれとちょうど同じ時間だったから、蒼生も仕事に穴を開けずに済むし、何より蒼生自身が母の身を案じていたので、母と話せることがありがたかった。
 蒼生の両親が住む県では、新型コロナの影響で、県外からの人の流入を禁じていたため、蒼生は母の見舞いにずっといけなかった。そのため、蒼生は母と話すのは久しぶりのことだった。

 初めてテレビ通話で母と話した時、蒼生は自分の母の顔を見て少し驚いた。事前に父から母の様子を聞かされていたものの、母は予想以上に肌の艶が失せ、カサカサに見え、肌の色が土色になっていた。顔も首もむくんでいた。話すことに難儀して、声は掠れ気味で聞こえにくかった。母は一言話すだけで息が上がってしまい、はあはあと息苦しくなっていた。
 それでも母は蒼生に
「大丈夫だから、心配しないで」
と気丈に振る舞うのだった。
 妻が蒼生と話すことが苦しそうに見えた蒼生の父は、
「お母さんが苦しそうだから、そろそろ電話は終わりにするぞ」
と言って、電話を切った。
 妻が息子ともっと話したかったのかもしれないが、妻が話すだけでも非常に辛そうにしか見えなかった。それが蒼生の父には辛かった。

 その後、蒼生と母は何度もスマートフォンのアプリでテレビ通話した。
 テレビ通話を始めて2週間ちょっと経過した頃、蒼生の母はほとんど話せなくなってしまった。時折、力を振り絞るように唸る声しか出せなくなっていた。テレビ電話に映った母の顔色はさらに土色を増し、肌は古い木造建築の柱のようにカサカサに乾燥していた。母は瞼を開けることもできずに、じっと目を瞑っていた。
 その時蒼生は
「母の状況は、もうかなり厳しいのかもしれない・・・」
と感じた。

 その瞬間、蒼生の口から
「お母さん、俺を産んでくれてありがとうね」
という言葉が出た。蒼生は、今こそこの言葉を、お礼の気持ちと一緒に母に伝えなければと思った。言葉にした時、蒼生は喉を締め付けられるような感触の中、力ずくで声を絞り出した。そして、目の裏が熱くなり、涙が滲んできた。声も涙声だった。

 それを聞いた蒼生の母は、ベッドで体をビクッビクッと震わせながら、
「うー、うー・・・」
という声にならない声をあげながら、涙を流しながら一生懸命に話をしようとした。なんとしても蒼生に会わなければ、会いに行かなければという母の一念が、蒼生の母を突き動かしていた。
 その声を聞いた蒼生は、溢れる涙を止めることができなかった。
 そして、スマートフォンの向こう側でテレビ電話を聞きながら、妻の様子をそばで見ていた蒼生の父と看護師も、ただただ号泣するばかりだった。  
 蒼生の父は、
「そろそろお母さんを休ませないと。話するのもちょっとしんどそうだから」
と言って、テレビ電話を終わらせた。
 これが、蒼生と母の最後の会話だった。

愛別離苦

 蒼生は時折、集中治療室を担当する看護師長とも電話で話していた。蒼生が病院に電話して、
「新型コロナのせいで病院にお見舞いに行けないが、母の病状が心配なので母の状況を教えて欲しい」
と伝えて以来、母の状態を聞くことができていた。
 
 母の顔色がますますすぐれないことが気になり、母との電話の次の日、蒼生は病棟に電話した。そして、看護師長から蒼生の母の状況を詳しく聞いた。

 看護師長は、蒼生に次のように説明を始めた。
「蒼生さんとお母さんの最後の会話の少し前くらいから、お母さんの認知機能は急速に悪化し始めました。極度に短気になっています。何もかも自分の思い通りにならないと、すぐに怒り、苦々しい顔で嫌がりますね。看護師も一生懸命対応していますが、なかなか難しいですね」
「母がご迷惑をおかけしております・・・」
「いえ、それは私たちがやることなので、気になさらないでください。それでもお母さんは、お父さんが見舞いに来るとすぐに機嫌が良くなるんです。そして15分が過ぎてお父さんが帰らなければならなくなると、お母さんはしゃがれた声で唸るように泣くんです。それを見るたびにお父さんも泣いています。」
「そうでしたか・・・」
「お母さんの容体は、率直に申しますと、回復が見込めないかもしれません。現在お母さんは寝たきりで、食事はほとんど取れなくなり、腎臓が弱っているためにむくみがますますひどくなり、全身状態は厳しい状況なのですが、それでもお母さんは一生懸命に頑張っています」
 そこまで聞くと、蒼生は目頭が熱くなってきた。

 そして、看護師長は
「これまで何度もお話ししてきましたから、おそらく想像がついていると思いますが、看護師の立場から申しますと、お母さんは生きているのが不思議なくらい弱っています。この状態が、もう2ヶ月近く続いています。ほぼ奇跡だと言って良いでしょう。お父さんが毎日来てくれるから、お母さんは頑張って生きて、会って、話したいと思っているのでしょうね。」
と説明するのだった。

「そうなんですね。懸命に看護してくださって、ありがとうございます」
「そうおっしゃっていただけて、看護師はみんな嬉しいです」
 そういうと看護師長は、少しだけ明るい声色で、最近の父と母の様子を教えてくれた。

「お母さんは、お父さんが帰る時、いつもじっとお父さんの背中を見て、ポロッと泣くんです。お父さんもいつも名残惜しそうに帰ります。その様子を見て、看護師がみんな『お父さんとお母さんは、相手を本当に大切に思って、愛し合っているんだね。いいご夫婦だよね。羨ましいね』って言ってるんです」
「そうでしたか。僕にとっても、父と母は理想の夫婦です」
「ですよね。なので、お父さんにも説明したのですが、今後のお母さんの治療について、医療者の立場としては、2つの選択肢があると考えています。一つはこのまま入院を続けること。もう一つはご自宅で在宅療養をすることです」
「在宅医療も選択肢なのですか・・・」
「はい、そうです。お父さんとお母さんの様子を見ていると、ご自宅でお二人の時間を長く取ることも、お二人にとっては良いことなのではないかと私たちは考えています」
 看護師長は、ちょっとだけ間を取って、話を続けた。

「ただし、この場合はご自宅での看取りになる可能性があります。お母さんの容体が今以上に早く悪化する可能性がありますし、ご自宅でお母さんに何か変化があった場合、私たちが病院からご自宅まで駆けつける移動時間もかかるため、すぐに対応できないこともあります」
「なるほど・・・」
 看護師長は、また少しだけ間を取って、話を続けた。

「このお話は、お父さんにも説明しました。お父さんは『入院での治療を続けてもらえないか?自宅で何かあっても自分では何にもできないし、妻には少しでも長く生きてもらいたいから』とおっしゃっておられました。ですから、私どもとしてはお父さんのご意見を尊重して、入院してもらっています」
 看護師長の話に、蒼生は自分たちに対する看護師長らの配慮を痛感した。

「父の気持ち、よく分かります。僕も父を同じ意見です。ぜひ入院で、母を診てください。母や父のことをいろいろと考えてくれて、ありがとうございます」
「分かりました。では引き続き、こちらでお母さんの看護をさせていただきますね」
「よろしくお願いいたします」

 そう伝えて電話を切った数日後の朝、蒼生の父から蒼生に電話が入った。「今しがた、お母さんが亡くなった」
 力なく、蒼生の父は、そう語った。
 お盆を過ぎた、まだまだ猛暑が続く、多くの蝉が盛んに鳴いている夏の日の朝のことだった。

(第七章に続く)

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