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黄エビネが咲く庭で (第十六章 吉田と松坂の核心と革新と確信)

黄エビネが咲く庭で (第十六章 吉田と松坂の核心と革新と確信)

医療DX勉強会、開催される

 第1回医療DX勉強会が開催された。
 この勉強会で初めて、日本の医療のDXに関わる厚生労働省、デジタル庁、財務省、経済産業省、吉田らを中心とした有識者数名が顔を合わせた。
 
 吉田はこの時、全員の挨拶と名刺交換時に、井出とも挨拶した。吉田は、井出がデジタル庁の名刺を持っているものの、井出が本来エスタブリッシュシステムズの人間であることは知っていた。
 「(IT企業のビジネスに直結するようなコメントは、あまり言わない方がいいな)」
 吉田は、この医療DX勉強会での自分の発言に注意を払う必要があると認識した。

 勉強会は、厚生労働省が用意したアジェンダに従って進行した。
 まずは各人の挨拶から始まり、医療DX勉強会の目的、ゴールの目線合わせが行われた。
 その後、勉強会の開催日時と頻度、開催場所、今後の議論の進め方、勉強会のテーマの設定、勉強会のファシリテーターの役割と分担、議事録担当者の決定方法と持ち回りのルール、勉強会の資料の共有や管理方法、欠席者が出た時の代理人の設定など、勉強会の運営に関わる細かいルールづくりを行なった。
 議事録の作成および勉強会の資料の共有や管理方法は、デジタル庁が自前のスタッフやツール、オンラインストレージサービスを用いたデータや資料の管理など実務を担うこととされていた。
 
 このことは、医療DX勉強会の運営の根幹をデジタル庁が担うことを意味していた。
 財務省や経済産業省、吉田をはじめとした有識者は、すぐにそのことに違和感を覚えた。デジタル庁に医療DX勉強会のすべての情報が集約されることになるからだ。
 とはいえ、医療DX勉強会の面倒な業務を全てデジタル庁が担うということは、デジタル庁以外の全員が面倒なタスクから解放されるため、特に反対もなく、勉強会全体で合意された。

 その後、厚生労働省が集めたデータなどをもとに、松坂が
・将来の人口減少社会の到来
・都道府県別の人口及び医療の需要と供給予測
・将来の日本のGDP
・日本の予算に占める医療費の割合、高額療養費の割合
などを説明した。

 松坂の説明を聞いていた吉田は、松坂の発表の仕方もその内容も極めて秀逸であると心底感激していた。
 そして、松坂とだけはきちんと強固なパイプを作っておいた方が得策だとも思った。
 元々松坂が吉田に電話をかけてきてくれたことが、医療DX勉強会に参加することになったきっかけだ。部下の鈴木の同級生でもある。吉田が実際に松坂に会ってみると、松坂は信頼できる人間だと、吉田は一目で感じた。
 だから吉田は、松坂と厚生労働省とはしっかりとコネクションを作り、医療DX勉強会の設立の趣旨に沿って各省庁や日本の医療の質の向上に貢献していくことが肝要だと即座に理解した。

 医療DX勉強会に井出がいる以上、エスタブリッシュシステムズとインフィニティヴァリューが、医療DXに関わるIT案件の獲得競争で相見えることになるかもしれない。多数のIT企業も競争に参入してくるかもしれない。このことにも要注意だ。
 競合相手だけではなく協力関係を結べる新たなビジネスパートナーも出てきてくれるかもしれない。
 
 いずれにしても、今後の議論の展開には十分な注意を払う必要があることだけは間違いない。
 勉強会の会場を出た吉田は、そう心に刻み込んだ。 

松坂と吉田、日本の医療の課題を語る

 「吉田社長、ちょっとよろしいですか?」
 医療DX勉強会の会場を出た吉田は、後ろから早歩きで追いかけてきた松坂から声をかけられた。
 吉田の周りには誰もおらず、小川や濱田、井出など、参加者それぞれが本来の持ち場に戻って行った後だった。
 吉田が振り返ると、松坂は少し息が上がりながら、吉田に追いついた。
「吉田社長、良かったらちょっとだけお話し合いをお願いしたいのですが、お時間は大丈夫でしょうか?」
「ええ、大丈夫です。」
「では、場所は弊省の会議室にしましょう。人払いをして、二人でお話をしたいです」
「わかりました。ではそうしましょう」
 吉田と松坂は、並んで厚生労働省に入って行った。

 会議室に入ると、松坂は吉田にお茶を出しながら、おもむろに話し始めた。
「先日、御社の方々が社会保険庁とレセプトデータの解析でご一緒いただいたそうですね」
「耳が早いですね、はい、そうです。
 弊社の社員が社会保険庁に伺って、レセプトデータを解析させていただき、現在行われている医療行為の実態を明らかにし、その結果を社会保険庁に共有させていただきました」
「その結果を、弊省でも聞きました。非常に有意義なご報告だったようですね」
「はい、今あるレセプトデータでも、こういう分析ができるということを社会保険庁の方々にご覧いただきました。
 社会保険庁の皆様からは、
『こういう細かい分析までできるのか』
『ここまで詳細に分析できるのに、それがワンクリックでできるというのは、非常に素晴らしい』
などと、大変嬉しいお言葉を多数いただいております」
 吉田は少し照れながら、部下を誇りに思いつつ、社会保険庁とインフィニティヴァリューが協業していることを松坂に伝えた。

 松坂は
「それは素晴らしい。早速結果を出しておられますね」
と、吉田の話を笑顔で聴いていた。そしてお茶を一口飲み、言葉を続けた。

「弊省(厚生労働省)でも、レセプトデータを用いた分析を行い、適切な医療が適切な患者さんに提供されているかを検証しています。
 また、レセプトデータとは別に、弊省では『ナショナル・オープン・データ(NDB:匿名医療保険等関連情報データベース)』というデータも持っています。吉田社長、NDBはご存知ですか?」
「はい、NDBの存在は存じ上げておりますが、実際にそのデータベースを拝見したことはないですね」
「そうでしたか。NDBは、厚生労働省が法律に基づき、レセプト情報等を収集し、個人の特定ができない形でデータベース化したものです。日本のレセプトデータが全てこのデータベースに格納されています。
 吉田社長のデータ分析のBIツールで、NDBを分析してみたいですか?」
「そうですね、もしそれができるのであれば、社会保険庁様との分析以上に、日本全体の医療の現状を分析することが可能でしょう」
「それは素晴らしい。ぜひ一緒にそれをやりませんか?
 現時点では弊省が吉田社長のBIツールを使うにあたっての契約がありませんし、予算もまだ計上していません。それらをクリアしなければいけません」
「ええ、もちろんです。私どももそのつもりです」
「また、最初のうちはPOC(Proof of Concept:概念実証)として吉田社長にお願いすることになるかと思います。
 もし、それでよろしければいかがでしょうか?」

 吉田も一口お茶を飲んでから、
「わかりました。ぜひ一緒にやりましょう。
 ただ、弊社のBIツールがSaaS(Software as a Service:サービス提供事業者(サーバー)側で稼働しているソフトウェアを、インターネットなどのネットワークを経由して、ユーザーが利用できるサービス)で動いています。
 ですので、どうしてもサーバーの管理や保守などのランニングコストが発生します。その費用については、いずれ貴省に請求可能か、別途相談させてください」
「はい、もちろんです」
「なんでも無償で、ということですと、貴省に対しての贈賄と疑われかねません。それではお互いに不幸になってしまいます。
 そうはなりたくないので、然るべき費用を然るべきタイミングで請求させてください」
「わかりました」
 吉田と松坂は、お互いが信頼するに足りることを確信し、思わず笑顔がこぼれた。

 さらに松坂が話を続けた。
「吉田社長、このNDBに、他のデータベースも連携させて解析することは技術的にはどうなんでしょうか?」
「松坂さん、それは大した問題ではありませんね。連携させたいデータベースの数とそのデータベースの設計にもよりますが、それらのデータベースの構造を我々にも共有してもらえたら、大して手間がかからず複数のデータベースを連携させることが可能です。
 松坂さん、何かやってみたいことがあるんですか?」
 吉田は、松坂の目が少し輝いたように感じ、少し突っ込んだ質問をした。

 松坂は、自身が少し興奮してきていることを感じながら、吉田から力を借りたい一心で、松坂の構想を打ち明けた。
「現在弊省では、NDBに介護のデータベースや医療に関する他の複数のデータベースを連携させることを考えています。そしてそれらを連携させた上で、より多くデータを分析できるようにすることで、一層データを活用してもらうことを考えています。
 そのためには、複数のデータベースを連携させることが避けて通れません。
 以前、何かで御社がその技術を業界内で先駆けて開発されたと聞きました。
 実際のところはいかがでしょうか?」

 吉田は、これはずいぶんと大掛かりなお話を聞いたと思いながら、インフィニティヴァリューでの取り組みを紹介した。
「そうですね、技術的にはそう難しくないですね。
 実は、弊社では先行して複数の医療関連のデータベースを連携させられないかを検討し、そのための開発にも着手していました。
 実際のところ、医療機関ごとに電子カルテのデータベースがカスタマイズされることによって独自のデータベースと化し、連携することとそれに見合う対価の回収が難しいということで、そのサービス化を中止したところです。
 ただ、技術そのものは確立していますし、データベースの個数が何千何万ということでないなら、松坂さんがやりたいことは実現できるでしょう」

「電子カルテのデータベースの連携もご検討いただいていたのですね。そしてその取り組みを中止された。なるほど・・・。
 吉田社長のその判断は、英断だったかもしれません。
 なぜなら、厚生労働省は現在、日本の医療機関の電子カルテのデータベースの統合化の作業を進めているのです。もし吉田社長がそのまま御社での新サービスの開発を進めておられたら、似たようなサービスが2つ出来上がるところでした」
「そうでしたか、それは存じ上げませんでした。弊社でのサービス化を中止して良かったです」
 吉田と松坂は、少し微笑みながら目が合った。

 松坂は、自分の意図を話し始めた。
「今回吉田社長に参加していただいている医療DX勉強会を通じて、僕は厚生労働省が所管している各種のデータベースを、もっと活用しやすく、社会に価値を還元できる仕組みに作り変えたいと考えています。

 現在の弊省内には、さまざまなデータベースが複数あり、それらが完全に独立して利用されています。
 それらは、それぞれの部署にとっては有用なのですが、弊省全体で見ると使い勝手が悪く、部分最適になってしまっています。格納されているデータ自体は重要なデータだけに、非常にもったいない状況です。

 そこで僕は、NDBとそれらのデータを、マイナンバーを使って国民一人一人の医療に関するデータをすべて連携させたいです。そして、連携されたデータベースを解析することで、患者への治療が効果が他の治療と比較してあるのかないのか、コストはどうなのかなど、あらゆる観点で分析したいと考えています。」
 ここまで一気に話した松坂は、自分でも顔が少しほてっていることを感じた。
 松坂の話を聞いた吉田は、松坂がここまで考えていたことに少々驚いた。そして松坂のアイディアと意図をしっかり受け取った。

 ちょっと間をおいて、吉田はインフィニティヴァリューのメンバーで考えたアイディアを話し始めた。そのアイディアのきっかけは、蒼生が話してくれた彼の母が亡くなった時の経緯だった。
「医療のデータを連携させ、これまでにないデータを作り、詳細に分析することは非常に重要です。
 そして、その前に、そもそも何を分析したくてデータを繋げるのかをしっかり検討することが極めて大切です。
 ゴールを正しく設定するとも言えるでしょう。

 すなわち、今の日本の医療の何が課題なのかを分析し、その課題を深掘りしたり、課題の解決策を実施した後に課題が解決できたかどうかを評価する、といった一連の取り組みをどうデザインするか。
 これが医療DX勉強会で今後みんなで話し合わなければならない、重要なテーマです。」
「おっしゃる通りですね」
松坂は深く頷いた。それをみた吉田は、言葉を続けた。
 
「医療は、患者さんの病気を治すためだけにあるのではありません。
 むしろ逆で、患者さんの人生の一部として医療があるはずです」
「はい」
「医療が患者さんの人生の一部なら、医療は患者さんに価値を提供すべきです。
 ちょっと話が変わりますが、当社の社員のお母さんが昨年亡くなりました。社員から聞くところによれば、社員の両親が住む地方では、最寄りの病院でも治療を受けられないことがあるようです。社員のお母さんが希少疾患をはじめ複数の疾患を併発していたことで、その治療や手術ができる病院は、自宅から遠く離れた病院だったそうです。」
「そうでしたか」
 松坂の顔が神妙な面持ちになった。
 吉田は、また話を続けた。

「遠方の病院で治療を受けるお母さんのために、社員のお父さんは毎日病院にお見舞いに行ったそうです。その距離は片道70km以上、時間にして1時間半以上だそうです。ご自宅から病院まで毎日往復したことで、ガソリン代や車の消耗費が費やされました。これも医療に関わる家計からの出費です。

 これ以外にも、お母さんが希少疾患のため、市役所に行ってさまざまな手続きを何度もする必要があったと聞きました。希少疾患のデータベースにお母さんのデータはあったはずですが、それが他の手続きなどに連携されていないため、お父さんは高齢にも関わらず、非常に難しい書類の作成に何度も追われ、大変な思いをしたそうです。これもDXで解決できるはずです。」
「そうですね、技術的には問題なく対応できますね」
松坂は吉田の話に同意した。吉田は、さらに続けた。

「当社の社員のお母さんが複数の疾患を併発したとき、主治医は治療法を検討することに難渋したそうです。その主治医が経験したことがない疾患の患者さんであっても、全国には似た患者さんがいたかもしれないですよね。
 その患者さんがどのような治療を受けたのかを医師が共有できる仕組みがあったら、当社の社員のお母さんは、違う治療を受けたかもしれません。そうしたら、違う結果になった可能性も出てくることも考えられます。

 医療のデータの活用が徐々に活発になってきている今、このタイミングで医療のデータを最大活用することは、医師や患者さんにとって計り知れないメリットが生まれるかもしれません」
 吉田もここまで一気に話したことで、少し息が上がり気味だったが、さらに言葉を繋げた。
「松坂さん、松坂さんの構想は厚生労働省内のデータベースですが、これをもっと厚生労働省が持っていない国民のデータと連携させてみませんか?

 具体的には、例えば日本の世帯ごとの家族構成、年収、可処分所得、銀行残高、患者さんの自宅の位置データと受診した医療機関の位置データなど、役所にある個人のデータと医療のデータを連携させるんです。
 
 そこまでやれば、さっき紹介した当社の社員のお母さんが受けた治療が、コスト面でどうだったのか、費用対効果はどうだったかも検討できるようになるでしょう。
 家族単位で、医療費がどれくらい家計を逼迫させるのかもわかりやすくなります。
 そこまで分析できれば、日本の医療の質が『効果』や『生存期間の延長』、『費用対効果』といったポイントで評価できるようになりますよね」

 松坂は吉田の話を聞いて、医療DX勉強会で進むべき方向が明確になった。吉田の話に完全に同意だった。あとは松坂がやるのかやらないのかの話だった。松坂が腹をくくれるかということだ。

 松坂は
「そこまでデータを連携できれば、さまざまな手続きもオンラインでできるようになり、市役所にわざわざ行かなくても良くなるかもしれないですね。
 そうすれば市役所も、もっと自分たちの街をよくするための取り組みを検討する時間が作れるでしょう。
 医療現場でも、患者さんも医師も、もっとデータに基づく治療の意思決定がしやすくなり、より良い治療を受けることができれば、患者さんもご家族も医師も、みんながハッピーになれますよね」
と熱っぽく語った。

 それに応じるように吉田も
「DXは本来、導入し、活用したら、その会社や社会がバージョンアップしていくはずなんです。

 日本よりも先行してDXを導入、活用している海外の国では、DXによって社会全体のさまざまな利便性が高まり、そのメリットを国民が享受しています。DXによって国民が豊かになるんです。
 逆に、国民や利用者が豊かにならないDXは、DXじゃないんです。

 しかし、残念ながら日本では、DXをシステムの連携としか捉えられていないように見受けられます。システムを連携した先に、その会社の生産性が劇的に何倍も高まった、などという事例は、残念ながらほとんど聞いたことがありません。
 
 日本の医療が世界でも最高水準であり、そして極めて低コストであるということは、世界に誇れることです。
 その価値をさらに高めるには、医療や国民のデータをうまく連携させて、患者さんや国民の生活の質、医療の質がどれくらい高まったかを、さまざまなデータを用いて明確に解析・検証する必要があります。詳細な解析なしには、どこから医療の質を高めればいいのかがわかりません」
と、インフィニティヴァリューのメンバーと熱く議論した話を松坂に披露した。

 松坂は一つ一つの話に頷きながら、吉田と彼の部下たちが事前にこんなにさまざまな検討をしてくれていたことに感激し、感謝していた。
 そして、吉田たちの力を借りることで、厚生労働省の医療への取り組みが大幅に飛躍できるかもしれないという可能性を感じていた。

 二人が閉じこもっていた会議室の時計が20時を過ぎていた。
 松坂は
「吉田社長、遅いお時間まで議論させていただき、本当にありがとうございました。急なお声がけだったにも関わらず、お付き合いくださって、感謝申し上げます」
と深々と礼をした。
 吉田も
「こちらこそ、随分と長居してしまいました。松坂さんのお仕事が滞ってしまったのではないですか?」
と恐縮していた。

「いえ、全く問題ありません。今日吉田社長とお話をさせていただいたことで得られた気付きの価値の方が遥かに大きいですから。今日の議論はプライスレスです」
「こちらこそ貴省の重要な取り組みをお聞かせいただいて、私たちが何をなすべきか、かなり明確にイメージできました」

 松坂は吉田と一緒に厚生労働省の1階玄関まで降りて、吉田を見送った。別れ際に吉田と松坂は、両手で硬く握手を交わした。
 松坂も吉田も言葉には出さなかったが、お互いがこれからの医療DX勉強会を通じて、強力なパートナーになることを確信していた。
 松坂は、見送る吉田の背中に、彼の並々ならぬ決意・熱意を感じていた。松坂にとって、吉田はこれ以上ない、信頼できる存在となっていた。

(第十七章に続く)

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