見出し画像

黄エビネが咲く庭で (第七章 末期の水、後悔の念)

第七章 末期の水、後悔の念

 蒼生は母の死を父から聞いてから急いで実家に戻ったものの、到着したのは母の納棺が終わった後だった。
 蒼生の仕事の引き継ぎや客とのスケジュールの調整などに手間取り、都内の職場から自宅に一旦帰り、礼服や香典などの葬儀の用意を整え、着替えをたずさえ、新幹線に飛び乗って移動したが、実家に着くまでに半日近く時間を要した。
 
 棺の中の母は、テレビ電話で見た時よりも、さらに少し顔色が黒っぽかったが、綺麗に死化粧をしてもらっていた。体のむくみは取れて、大動脈解離になる前の体型に戻っていた。母が真っ白な死装束を身に纏っていることが、蒼生にとって不思議に感じられた。

 通夜になり、親戚が集まり始めた。蒼生が実家を離れてからというもの、親戚に会う機会があまりなかったため、再会が随分久しぶりという親戚も多かった。
 親戚が揃った後、僧侶による読経、法話がなされ、通夜の振る舞いが供された。その間、蒼生は母が亡くなったことがまだ信じられなかった。ふと周りを見渡したら、ドアを開けて母が入ってきそうな雰囲気すらした。

 しかし一方で、蒼生自身は思ったよりも母を亡くした喪失感がなかった。もしかすると母の命がもう長くないだろうとある程度覚悟していたからかもしれない、と蒼生は思った。もしくは、もっと時間が経過してからより大きな喪失感がやってくるかもしれないとか、自分自身がまだ母の死を受け入れられていないのかもしれないとも思った。
 いずれにしても、蒼生にとっては初めての妙な違和感で、自分自身への戸惑いを隠せなかった。

 蒼生の家の信仰で、通夜の後、翌日の葬儀まで蒼生と父は二人で棺守りをした。棺守りでは、故人の近親者が故人の棺の祭壇の灯りと線香を終夜絶やさずに過ごす。蒼生と父は、棺守りをしながら、座布団を敷いて横になり、通夜で疲れた体を休めた。時折うとうとしながら、蝋燭や線香が絶えていないかを確認し、それらを絶やさないように備え続けた。家の中は、線香の香りが満ちていた。
 蒼生の父は、何も言わなかった。蒼生は、父が自分と何か話したいことがあるのではないかと思ったが、父は一言も言わなかった。
 蒼生は、父は、母と最後の会話を心の中でしているのかもしれないと思った。

 翌朝、葬儀が始まった。前日の親戚が再び蒼生の実家に集まり、僧侶の読経、焼香、法話と進んだ。
 出棺の際、蒼生の父に対し、蒼生の父の姉は
「棺にあんまり物を入れるものではない」
と言ったため、蒼生も親戚も、蒼生の母の棺には写真数枚や少々の花が納められた。
 蒼生は、なんだか寂しい棺だな・・・と心の中で思った。蒼生は葬儀に数回しか出たことがなかったが、他の方の棺にはもっとたくさんの衣類や花などが惜しげもなく詰められ、華やかな棺になっていたことを覚えていた。
 それに比べたら、母の棺は何もないに等しい。そう感じた。

 その瞬間、蒼生の父が
「ダメだ、こんな棺!寂しすぎるだろ!」
と、感情の堰を切ったように、思いの丈を迸らせた。そして、祭壇に飾ってあった花輪や生花から綺麗な花だけを片っ端から抜き取り、母の棺の中にどんどん詰め込んでいった。
 その様子を見た蒼生も、父と一緒に祭壇の花をかき集め、母の棺に隙間なく納めていった。他の親戚も手伝ってくれたおかげで、母の棺は少しは華やいだ。
 だが、それは最初の棺よりも多少華やいだ程度であって、後から一部の親戚が
「場所が違えば、葬儀のやり方も違うもんだな。うちのあたりだと、棺にはもっとたくさん服を入れたりするんだけどな」
と言っていた。
 蒼生も父もそのイメージだったため、父の意志に全くそぐわない今回の通夜と葬儀を取り仕切った葬儀屋には、蒼生も父も恨みしか残らなかった。

 出棺後、火葬場でも、蒼生と父は同様の思いをした。
 他の火葬場では、故人の骨を細かく丁寧に拾い集め、骨壷に収めるところを蒼生も父も見てきたが、蒼生の母の火葬が行われたところでは、蒼生の母の骨のうち、形が残っているものだけを拾い集めるのだった。そして、粉々になってしまった骨の微細なかけらは骨壷に収められることなく、火葬場のスタッフがそのままどこかに運んでしまい、その骨の粉がどうなったのかはわからなかった。
 蒼生は
「まさか、母さんの骨のかけらを産業廃棄物にでもするつもりじゃないだろうな?」
と呟いた。
 蒼生も父も、母の葬儀では最後まで後悔しか残らなかった。 

とめどなく湧いてくる疑問

 蒼生も父も、母の葬儀で散々な目に遭ってしまった。しかし、済んでしまったことはもう変えられない。そして、全ての葬儀の儀式が終わったので、蒼生はまた都内に戻り、仕事に復帰することにした。
 父が蒼生を駅まで車で送ってくれた。父が母のお見舞いに行くために毎日運転した軽自動車に乗って、蒼生と父は駅に向かった。

 駅の改札を抜けて振り返った蒼生は、改札の前で力なく、笑顔なく手を少しだけ振る父を見た。父が一回り小さくなったように、蒼生は感じた。

 蒼生の父は、蒼生に帰って欲しくなかったが、蒼生が仕事に戻らなければならないことは理解していた。だから、自分が感じている空虚な心を蒼生に感じさせないように、蒼生を見送った。
 蒼生の父自身も、働いていた頃は土日も関係なく、母と蒼生のために働き通した。父は、家族を養うことに必死だった。だからこそ、蒼生が仕事に戻ることをよく理解できた。だから何も言わず、ただ蒼生を見送った。
 そして蒼生も、そんな父の思いと仕事に復帰する後ろめたさを同時に感じながら、新幹線に乗り込んだ。その足取りは、今までに感じたことがないくらい重かった。

 帰りの新幹線の中で、蒼生は改めて考えた。
 そもそも、なぜこんなことになってしまったのだろう?
 母は人工透析ができないくらい、心臓が弱ってしまった。
 なぜ心臓は弱るんだ?
 心臓が弱らずに、人工透析を受けられる人たちだっているはずだ。
 その人たちと母は、一体何が違っていたというのか?
 母は敗血症も患ってしまった。
 なぜ母は敗血症になってしまったのだ?
 他の患者さんは、敗血症にはならないのか?
 大動脈解離の手術そのものはなんとかうまくいったが、極めて大変な手術だったと主治医から聞いている。
 主治医は、母が長い間膠原病による腎臓の炎症を抑える薬を服用していたため、もともと細い血管に加え、血管の内側がボロボロになっていた、と説明した。
 だとしたら、これは母だけの話なのだろうか?
 腎臓の炎症を抑える薬を長年服用している患者さんは皆、血管の内部がボロボロになっているのか?
 もしそうではない人たちがいるなら、その人たちと母は何が違っていたのだ?
 日本には、世界には、母のような人だっているはずだ。そのような人たちは皆、大動脈解離が起こったら同じような状況になるのだろうか?
 敗血症が起こったり、人工透析をせざるを得なくなるのだろうか?
 最後はまともに食事も取れず、ただ弱って、衰えて、亡くなっていくだけなのだろうか?
 日本は、医療水準の高さが世界でもトップクラスだと聞いたことがある。でも、母の腎機能を回復させる薬はなかったし、ボロボロになった母の血管の内部を修復する薬もなかった。母の血管を治す方法を、主治医は分からなかった。
 今回、母が受けた治療は、おそらくその時点ではベストだったのだろう。実際に、主治医も看護師もベストを尽くしてくれた。でも、結局母は亡くなってしまったじゃないか。
 そう思い至った蒼生は、医療の世界は素人にはもちろん、プロフェッショナルである医師にとっても分からない事だらけだと痛感した。

 そこまで思考が行き着いた頃、蒼生はこれまでの人生で感じたことがないほど巨大な虚無感に苛まれた。
 人の一生とは、やはり無情なんだ。
 どれだけ裕福になっても、不幸であっても、死ぬ時は一人だ。
 世に名を残す偉大な仕事をしても、人は、死ぬ時は死ぬ。必ず死ぬ。
 こんな当たり前のことを、母の死から思い起こさせられるとは思わなかった。
 蒼生は、新幹線に乗り込むときに買い込んだビールを飲みながら、放心状態になっていった。
 そして、母の葬儀の最中は感じなかったたくさんの疲労感に襲われ、蒼生は、それはそれは深い眠りに落ちていった。

(第八章に続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?