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黄エビネが咲く庭で (第八章 吉田と蒼生の共同戦線)

第八章 同志となった吉田と蒼生

中高年のぼやきは、ビジネスの種?

 蒼生は母の葬儀から戻り、また仕事の日々が再開した。

 その頃、蒼生の勤務先であるインフィニティヴァリューの社長の吉田は、社内に新たなプロジェクトの立ち上げを宣言し、そのメンバーの募集を告げた。
 新たなプロジェクトは、医療のビッグデータを扱う新規サービスの開発から顧客の創出、そしてそれらを近い将来吉田の会社の事業の柱の一つにするまで育て上げるという壮大なプロジェクトだった。
 
 吉田はこれまで、日本人の行動データというビッグデータの収集と分析、そしてマーケティングへの活用と具体的なITサービスへの落とし込み、そしてそのサービスを提供することで、自身の会社を大きく成長させてきた。
 ビッグデータを扱い、ビジネスに活用することで、多くの企業のサポートが可能になることや、それを通じて社会課題を解決することにもつながってきた。吉田自身、これらの取り組みや仕事にやりがいを感じていた。

 そして吉田は、更なるやりがいと社会課題の解決に向けて何にチャレンジしようかと経営陣らと協議した結果、医療のビッグデータを扱い、今の日本の医療の課題を解決しようという決断に至った。

 そのきっかけは、吉田の会社の経営陣のメンバーが漏らした一言だった。
「歳をとるのは嫌だねぇ。病気が増えてきて嫌になる」
「そうそう、血圧が高いとか、物が見えにくくなるとか、コレステロール値が高いとか」
「この間の健康診断でも、かなりの項目が要精密検査だった。去年もそうだったから、あまりショックではないけど」
「医者に診てもらうにしても、時間がかかってめんどくさい。ただ薬をもらうだけなのに、診療所を受診して、薬局に行って薬をもらって、これだけでも結構な時間の損失だ」
 
 このようにぼやいていた経営陣の話を聞いていた吉田は、
「そもそも、なんで医療って効率が悪いんだろうね?」
としみじみ言った。
 と同時に、これは社会課題の一つではないか、とピンと来た。
 これは解決できれば、大きなビジネスになる。
 吉田の勘がそう強く訴えてきた。

医療の課題とはなんだ?

 吉田は医療の専門家ではなかったから、今の日本の医療にどのような社会課題があるのかが今ひとつ理解できなかった。
 そこで吉田は、まずは医療現場の現状を把握するべく、自身の会社の経営陣に医療関係者の知人がいないか当たってもらった。経営陣の中には数人だが、同級生が医師だというものがおり、その経営陣を通じて何人かの医師とコンタクトすることができた。
 その医師らとのヒアリングの結果、医師には臨床現場でいくつかの困りごとがあることがわかってきた。

 たとえば、クリニックの医師の場合、その医師がもともと消化器科を専門としていても、その医師の専門外である高血圧や感染症、腰痛など、幅広い患者さんを診察する必要がある。
 
 患者さんが最初から大きな病院に行けば良いのではないかとも思われたが、現在厚生労働省はかかりつけ医の仕組みを日本中に展開しており、最初から病院を受診すると患者さんが金銭の負担を強いられる。そのため、患者さんはまずは自宅から近いかかりつけ医のクリニックや診療所を受診する。
 また、若い患者さんならスマートフォンなどで自分が受診すべき医師を探すことも容易だが、そうではない患者さんもまだまだたくさんいる。
 
 そのような時、医師から見ると、自分の専門外の疾患の診察は非常に不安になり、知り合いの医師への紹介などに至ることが多い。
 しかし、それも患者さんにとっては受診を2度しなければならなくなり、患者さんの不便や不満につながる。
 患者さんの不満は、医師のクリニックや病院経営の根幹を揺るがす由々しき事態に繋がりかねないので、なんとしてもそのような事態は避けたい。
 そう考えると、医師は自分の専門外の疾患を適切に診察するためのサポートが欲しい、という意見に至るのだった。

 ただ、吉田は、このような医師の意見を聞いても、今ひとつ腑に落ちないことがあった。
 それは、
『医師の意見はよく分かったが、受診する患者さんご本人は、ご自身が受けている医療について、どういうところに不安や不満を持っているのだろう?』
ということが明らかになっていないということだった。

 もしかしたら、医師は患者さんの本当の不安や不満を理解していないのかもしれない。
 あるいは、ヒアリングで適切に医師の本音を引き出せていないのかもしれない。
 いずれにしても、医療者の声を聞くだけでなく、患者さんやご家族の声も知る必要があるだろう。

 そう考えた吉田は、これまでの取り組みをさらに加速させ、患者さんの立場からの医療の社会課題を明確にし、そのソリューションを提供すれば、日本の医療の質の向上につながる可能性があると判断した。

 そして、この取り組みは近い将来大きなビジネスになりうる可能性があるかもしれないとも予感した。吉田はこれまで、確信はなくとも予感でピンと来たものは、ビジネスで成功することが多かった。

 今回も、吉田はビジネスの成功の予感がした。
 そこで吉田は、社内にこの医療のビッグデータを扱うビジネスをプロジェクトとして立ち上げ、社内の有志を募ることにした。

吉田の目論見と蒼生の思いの交錯

 蒼生は、このプロジェクトについて初めて目にした時、一目見て
「このプロジェクトは、自分のためのプロジェクトだ」
とピンと来た。そしてすぐにプロジェクトへの参加を申し込んだ。

 蒼生は、自分の母が亡くなった時、なぜ自分の母が亡くならなければならなかったのかが、どうしても納得いかなかった。
 
 自分の母は長く闘病生活が続いていたが、食べ物を贅沢して生活習慣病を患って亡くなったわけではない。むしろ質素な食生活で、慎ましく日々を暮らしていた。
 
 母の主治医からは、もともと血管が細かったのに、長い闘病期間に服用していた薬の影響もあり、血管の内部がボロボロになり、人工透析に支障を来したということが大きかった、と聞いている。

 母の主治医は、彼の知識の中でベストの治療を選択し、治療してくれたとは思う。
 だが一方で、母と似たような患者さんがどのような治療を受けて、どのような結果に至ったのかなどの説明は、一度たりとも無かったと父から聞いている。
 つまり、同じ病気であったとしても、他の医師が治療している『よその患者さん』がどのような治療を受けているのかは、他の医師には分からないということだ。
 
 ということは、医師は自分が提供している治療が、他の医師が行っている同じ病気の治療と比べて、
・どちらの治療法が効果に優れるのか
・どちらの治療法が副作用がより少ないか
・どちらの治療法が費用対効果に優れているか
などを知る機会が少ないということなのだろうか?

 これらが分からなければ、医師は自分の治療をうまく行っているのかどうか、評価することができないのではないか?と思われた。
 
 さらに言えば、母の体に起こっていた血管内部のさまざまな変化がデータとして蓄積されていなかった上、その治療薬を使い続けることで将来起こる体の変化の可能性も、非常に予測しにくい状況にあった。

 すなわち、患者さんの治療のために必要なデータが欠損しており、医師も患者さんも将来の見立てが十分にできない、ということだ。

 もちろん蒼生も、自分の母が希少疾患の患者なので、そもそもデータが少ないだろうということは理解している。
 しかし、もし日本の医療のデータがもっと様々な分析に使えたなら、母にとって最適な治療方法は、別のものになっていたかもしれないのではないか。
 日本が医療のデータを十分に分析できていないならば、母に限らず、日本中の患者さんにとっても、そのご家族にとっても、医師にとっても、不幸な話なのではないか?

 少なくても、現在医師は目の前の患者さんに対して、過去の治療データや日本国内の同じ疾患の患者さんの治療データに基づいて最適と考えられる治療を選択する、ということはできていないということだ。そのためのサポートの仕組みがないということだ。

 そのため、医師は過去の経験や知っている知識から、その患者さんに最適な治療を提案している、ということだ。

 この体制は、医師にとっても患者さんにとってもハッピーなことなのだろうか?
 どう考えても、誰もハッピーになっていないし、日本の医療のこの状況は、まだまだ改善の余地がある。
 蒼生はそう確信し、このプロジェクトに応募した。

 蒼生はこのプロジェクトの選考プロセスの中で、吉田の面接を受けることになった。
 その時蒼生は、自身の母の治療を振り返って感じた、『蒼生が思う日本の医療の問題点』を医療のデータの観点から説明した。

 普段は冷静な蒼生だが、面接の最中に吉田からの質問に答えているうちに、母の闘病中、スマートフォンで交わした言葉とその時の母の表情を思い出し、感情が迸った。
 吉田に説明する口調に力が帯び、涙を我慢するあまり、声が何度も詰まった。

 蒼生の言葉を黙って聞いていた吉田が、最後に蒼生に尋ねた。
「では、蒼生が考える日本にとってベストな医療の環境ってなんだろうか?」

 蒼生はちょっと考え、吉田の目をまっすぐに見て答えた。
「日本の全ての患者さんのデータを集めて、医師なら誰でも扱えるようにして、患者さんの個人情報に配慮しつつ、その患者さんにとって最適な治療が何かをいつでも瞬時に分析できる環境だと思います。
 もしそのような環境があれば、僕の母は、もっと前に薬を止めたり他の薬に変えたりして、亡くならないで済んだかもしれません」

 吉田はその蒼生の答えを聞き、蒼生の眼差しを受け止め、こう言った。
「蒼生、俺と一緒に日本にその仕組みを作るか?」

 蒼生はすぐさま
「ぜひ一緒にやらせてください!」
と答えた。
 吉田と蒼生はその場で力強く両手で握手を交わした。
 新たなコンビが誕生した瞬間だった。

 面接を終えて、プロジェクトのメンバーが確定した後、吉田を含めたメンバー全員がキックオフミーティングを開催した。

 その席上で、吉田はこう言った。
「今回のこのプロジェクトに応募してくれてありがとう。心から感謝する。
 このメンバーなら、日本の医療の質を向上させられる、新たなサービスの開発と提供ができるだろうと、自分も含め、経営陣全員も確信している。
 
 だが、医療は非常に巨大な仕組みで動いている。
 そこにある課題を突き止め、そのソリューションを開発し、提供するには、まだまだ真の課題の探索が必要だ。

 また、医療にはさまざまなIT企業も参入している。彼らもライバルになるかもしれない。場合によっては協業できるかもしれない。あらゆる横槍に適切に対処しなければならない。

 それらを踏まえ、我々インフィニティヴァリューが医療に参入することで事業が成功するかどうかの見込みも、精緻に分析する必要がある。

 このプロジェクトはおそらく、我が社のこれまでのサービス開発や売上規模として最大になる可能性があると私は見ている。
 これは、我が社の一層の飛躍大きなきっかけになるだろう。
 ぜひ全員で未だかつてない、大きな成功を勝ち取ろう」

 吉田がそう言うと、プロジェクトメンバー全員が立ち上がって、大きな拍手をした。吉田に送る拍手ではなく、むしろ自分達を鼓舞する拍手だった。

 吉田も蒼生もプロジェクトメンバーも、やるべきことがまだまだたくさんある。
 とはいえ、吉田も蒼生も『日本の医療の質を向上させる』という巨大な目標とやりがいに満ちた取り組みに着手することが嬉しく、心身ともに充実していることが実感できていた。

 吉田たちはすぐさま、プロジェクトの次の仕事に取り掛かった。
 次は、
・日本の厚生労働省が推し進めようとしている医療の提供体制の情報収集
・日本の医療の仕組みの更なる理解
・それらを支えているIT技術の調査
・それらの課題の探索
だった。

(第九章に続く)

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