黄エビネが咲く庭で (第十八章 電光石火)
第十八章 電光石火
第2回医療DX勉強会 開催
第2回医療DX勉強会が開催された。
第2回から、デジタル庁の井出が部下の崎本を勉強会の管理運営の一員として参加させた。
また、インフィニティヴァリューの吉田は、蒼生を参加させた。
蒼生は、彼の母を亡くした経緯と、それを通じて医療におけるデータの重要性を医療の消費者の立場から勉強会で発言することになっていた。
勉強会の冒頭、崎本と蒼生は、この勉強会の参加メンバー一人一人と挨拶し、名刺交換をした。
二人にとって、この勉強会の参加メンバーは、日常業務では知り得ることがない人たちである。二人はただただ緊張しながら、挨拶を名刺交換をすることで精一杯だった。
蒼生の発言の機会は、厚生労働省の松坂が吉田に持ちかけた。
これまで厚生労働省が様々な取り組みを行う際、患者会などにも参加してもらい、患者の立場から発言してもらう機会を提供し、その意見を医療の政策や制度の検討に反映している。
今回はその機会を、患者の立場だけでなく、医療データの可能性や活用のヒントなども得る目的があった。そのため、その役割には蒼生が最適ではないかと松坂は考えた。
「僕が勉強会で母の話をするんですか?」
この松坂からの打診を吉田から聞いた蒼生は、初めのうち戸惑っていた。
だが吉田から
「蒼生が俺たちに教えてくれた君の母の闘病の模様と、君の父がどのようにして君の母を支えたのかを、ありのままに話してもらいたい。
特に、君が言っていた『母が受けた治療は、本当に母にとってベストな治療だったのか?』という医療の質を問う話と、それに関わる君の父が様々な手続きの際に大変な思いをした話は、この医療DX勉強会では非常に重要な知見になる。
この医療DX勉強会が実現しようとしている未来の世界は、言うなれば『蒼生の母に最高の治療を提供し、それを支える蒼生の父に最高の利便性を提供する』ことになるからだ。
やれるな、蒼生」
と言われ、蒼生は自分の経験が日本の医療の質の向上に役立つなら、と引き受けた。
蒼生は、約3分で蒼生の母の長年にわたる病状、母が亡くなるまでの経緯、その時の蒼生の父の献身的な看護・介護の取り組み、葬儀での模様までを話せるように話をまとめ、発表の練習をした。
蒼生の発表のインパクト
この松坂のアイディアは、見事に功を奏した。
蒼生の話を聞いていた医療DX勉強会のメンバーのうち、崎本を含む何人かが目頭を押さえながら蒼生の話を聞いていた。
崎本は、鼻水を啜りながら、ハンカチで溢れてくる涙を押さえながら、蒼生の話を議事録に録っていた。
別の何人かは、天を仰ぎながら、腕組みをして蒼生の話を聞いていた。
松坂と吉田は一瞬目が合った時に、お互いにこの医療DX勉強会の本質を、参加者全員に今一度思い起こさせることに成功したことを確信した。
松坂と吉田は、デジタル庁が主導権を取りたいのは
・勉強会の議論をどのように進めたいのかということ
・そこで新たに取り組みが検討される様々なDX化
であり、それは医療DX勉強会の趣旨である日本の医療の質の向上に必ずしも関わりが十分ではないことを理解していた。
そのため、第2回の勉強会では今一度、この勉強会の原点に立ち返る必要があると考えていた。そのことを松坂は厚生労働大臣の小川に相談し、小川の了承のもと、吉田から力添えをもらえるように取り計らった。
その結果、勉強会の全員が、この勉強会の第一義は日本の医療の質の向上に資する取り組みを検討し、内閣に上申することであることを確認した。
蒼生の話が終わってから、勉強会のメンバーから蒼生に対して様々な質問がされた。特に
・医療の質をどのようにして評価するのが良いのか?その評価軸は何か?
・医療の質の評価が適切かどうかを、どのようにして確認するのか?
・医療の質を評価することは、医師はどのように受け止めると考えられるか?
・医療に関わる様々な手続きを簡単にできたら、日本国民にとってどのようにメリットがあるか?
など、様々な観点から質問が出た。
これらの質問に対して、蒼生が答えられるものもあれば、松坂が答えたもの、勉強会のメンバーの医療技官の医師が答えたもの、吉田が意見を求められたものなどがあった。
勉強会に参加している政治家や各省庁の職員は、医療のことについて知識としては知っていても、実際の患者やその家族の立場から意見や感想などを直接聞く機会が少なかった。
そのため、彼らにとっては目から鱗の話がいくつもあった。もちろん崎本にとっても同様だった。
したたかに、着実に
厚生労働大臣の小川が、
「今回、蒼生さんから貴重なお話を聞かせていただいたのは、当勉強会にとって非常に有意義でした。
もし蒼生さんが良ければ、そして吉田委員もご了承いただけるなら、蒼生さんの『患者さんのご家族としてのご経験と知識』を当勉強会にたくさんもたらしていただくことを意図して、蒼生さんをこの勉強会のメンバーに入っていただいてはどうかと思います。
皆様、いかがでしょうか?」
小川のこの提案に対して、財務省、経済産業省、デジタル庁は、皆了承した。
井出は内心、
「(この勉強会でデジタル庁が主導権を握るためには、吉田の会社の社員がさらにメンバーに加わるのは邪魔だな・・・)」
と思っていた。同じことをデジタル庁長官の濱田も思っていた。
だが、今回の勉強会の雰囲気では、メンバーを増やすことに反対することは難しかったし、反対するための良い理由もなかった。
こうして、小川、松坂、吉田らは、蒼生の話を通じて医療DX勉強会にインパクトを残すことに成功した。
次の議論として、『医療の質をどのように評価するのか?』、『その評価の方法は適切か?』が話し合われた。
この話し合いでも、様々な意見が飛び交った。
医師の立場からは臨床試験を実施して、治療法や治療薬の効果と安全性を比較検討するのが適切だとの提言がなされた。
一方、財務省からは、臨床試験によって治療法や治療薬の効果と安全性を評価するのは、試験開始後から結果が明らかになるまでに時間がかかりすぎるのではないかとの疑問が示された。
特にがん治療の場合、患者さんが治療後に何年長生きすることができたかまでを調べる必要がある。そうなると臨床試験が終了するまで、非常に長い時間がかかる。臨床試験が不要ということではないが、検証すべき臨床試験は吟味されることが望ましい、したがってなんでも臨床試験をする必要があるのか?臨床試験の結果が出るまでの間に亡くなる患者さんが増えることは大きな損失になるのではないか?というのが、財務省の懸念であった。
日本の限られた国家予算の中で、医療費を含む社会保障の費用が増大し続けている状況は、財務省としては見過ごせない。医療費は国民のために使うのだから、確実に良い結果が期待できる治療法・治療薬に使ってもらいたい。
このように財務省には、日本の医療の質が向上したかどうかを検証するには、あらゆる治療法・治療薬別に、費やしたお金と得られた効果を費用対効果として分析したい、という思惑があった。
この指摘は、兼ねてから財務省と厚生労働省の議論の中で何度も話し合われてきたことでもあった。
それを踏まえて、経済産業省から医療DX勉強会に参加している内野は、
「ヘルスケアや医療には、さまざまなデバイスがどんどん活用され始めています。それらのデバイスには、鋭敏なセンサーなどが搭載されていて、さまざまなデータが収集できます。そもそも患者さんのご自宅での様子は、医師はわからないはずです。だから、患者さんのご自宅での状況を各種データから評価することができれば、治療効果などの医療の質を検討するに良い参考データになるでしょう。
治療の費用対効果の分析の際には、デバイスから得られるそれらのデータもご活用いただけるのではないでしょうか?」
と、各種デバイスから得られるデータも医療の質を評価するデータとして活用することを提案した。
医療の質とは何か?
ここまでの議論をじっと聞いていた経済産業省の大臣である徳永は、おもむろに話し始めた。
「先ほどの蒼生さんのお話を伺って、我々は今後、国民の治療にかかった費用総額がどれくらいなのか、それは患者さんの世帯の中でどれくらいの負担なのか、それが診療報酬改定などで今後どのように変化したのか、これらをしっかり検討することが大事なのではないかと私は思っています。
皆さんは蒼生さんのお話を、どのように受け止められましたか?」
吉田は思わず、一瞬松坂の横顔をちらっと見た。松坂は、じっと黙って徳永の顔を見つめていた。
前回の医療DX勉強会で吉田と松坂が話し合った内容を、まさか徳永経産大臣が話し出すとは吉田は思いもよらなかった。自分が松坂の顔を見たことを井出に知られるとまずいと思った吉田は、医療DX勉強会のメンバー全員のかを見回して、自分の挙動が不審に思われないようにした。
井出は吉田と松坂の様子を気にしつつも、議論の流れをじっと伺っていた。
徳永は言葉を続けた。
「患者さんの治療の効果を医学的な観点からしっかり評価することは当然のことです。
その上で、患者さんがその治療をいつまで受け続けることができるか?というと、それはその患者さんやご家族の収入に依存します。すなわち、裕福な世帯は長く治療を受け続けられるが、そうではない世帯では治療の継続が難しくなる。
これでは、せっかく治療効果が高い治療法や治療薬であっても、お金が続かなければ治療は中断せざるを得ない、ということになりかねません。
それでは、患者さんやご家族が希望する結果と未来が得られなくなる、ということになってしまいます。
また、全ての治療法や治療薬が、費用対効果の検証ができているわけではないでしょう。
発売して間もない新しい治療法や治療薬だと、データが蓄積していないから、分析も難しいでしょう。
でも、そのような治療法や治療薬が最適な患者さんがおられるかもしれない。
だから、患者さんにとって治療を受けるチャンスを逃すことなく、治療法や治療薬にとってその提供価値を最大化するためにも、まずはその実態を把握し、医療のデータや世帯の収入のデータなどを包括的に分析し、今の国民の生活における『医療費が家計に与える負担の現状』と『治療によって得られたメリット』がどの程度あるのかを明らかにすることから始めてはいかがでしょうか?」
徳永の言葉を聞いて、財務大臣の楠木も、厚生労働大臣の小川も、力強くうなづいていた。大臣らの動きを見ていたデジタル庁長官の濱田も、大臣らに同調するようにうなづいていた。
濱田の様子を伺っていた井出と崎本は、濱田の医療への信念のなさ、思慮の浅はかさを感じ、なんともやるせない思いが胸の中に湧き上がってくることを感じていた。
議論を推し進める井出
第2回の医療DX勉強会の司会を務めていた井出は、
「では、大臣の皆様の見解が合意に達したようですね。
第1回の医療DX勉強会で日本の医療の課題の共通認識ができましたから、それらを踏まえますと、今日の勉強会で検討すべき方向が大まかに定まったと見て良いかと思います。
その検討をどうやったら実現できるか、具体的な分析の手法を考えたく存じます。
吉田委員は、どのようにお考えですか?」
と、吉田に意見を求めた。
吉田は心の中で、
「(ここは安易に意見やアイディアを言うべきではないだろうな)」
と感じ、データ分析の大まかな考え方だけを話すことにした。
「そうですね、先ほどの大臣の皆様のお話を踏まえますと、日本の世帯ごとの所得や医療費のデータと、患者さん一人一人の治療全般のデータが必要ですね。
それらのデータを繋げたら、さまざまな分析ができるでしょう」
井出は吉田の発言を聞いて、
「(吉田は、データの技術的なことは、あえて伏せてきたな・・・)」
と瞬時に見抜いた。
とはいえ、ITやデータや分析について素人の大臣たちがいる席で、データの細かい技術的な話をしても意味がない。
むしろ、日本の世帯ごとのデータを管轄しているのが総務省、患者データを管轄しているのが厚生労働省というのが、課題になるかもしれない。
今回の取り組みは、省庁を超えてデータを作るということになるので、省庁間のしがらみや法律の兼ね合いなど、調整すべきことがたくさんあるだろう。
井出は、そこに気がついていた。
井出は大臣たちに、この点について確認した。
小川や楠木、徳永たちは
「これは一度、閣議で共有、相談が必要だな」
「ああ、内閣府や総務省とも話が必要だな」
「この取り組みが個人情報保護法とか次世代医療基盤法とかにも準拠しているのかとか、技術的な情報漏洩のリスクとか、検討と確認が必要なことがたくさんあるだろうな」
と見解を示した。
井出は
「さすがにその閣議での議論は我々では難しいので、大臣の皆様にお任せしたいですね」
と、大臣を立てつつ、彼らの顔色を伺った。
濱田は
「閣議に関わることは、我々大臣に任せてもらいたい。
一方、各省庁からこの勉強会に参加してくれている皆さんには、まずは医療や個人情報に関連する法律が、我々がこれからやろうとしていることにどのような影響があるか、修正法案を作成する必要があるか、その他留意事項がないかを徹底的に洗い出してもらいたい。
その上で、それぞれの省庁の事務次官、局長などへの情報共有と根回しをお願いしたい。いかがか?」
と自分がこの勉強会を取り仕切っているかのような口ぶりで話した。
崎本は濱田の発言を議事録に録りながら、濱田の口ぶりが、小川や楠木、徳永らと違って、なんとも薄っぺらいと感じていた。
濱田の提案に対して、厚生労働省の松坂は
「はい、そうですね。閣議で協議していただけましたら、医療DX勉強会の各省庁からの参加者も、それぞれの省庁内の調整がはかどります。お願いします」
と反応した。
これからの『日本の医療のあるべき姿』を作る
続けて松坂から、次の提案が示された。
「本日の蒼生さんのお話を伺って、当勉強会では今後、医療に関連するデータや、世帯の収入等のデータを学び、それぞれのデータの特徴を理解する必要がありそうですね。
そして、その上で、それらのデータを連携させたら、国民にとってどのようなメリットを提供することができるのかという『あるべき姿』を描くのはいかがでしょうか?」
松坂の提案を受けて、財務省の新垣がさらに言葉を繋いだ。
「その進め方は、理にかなっていると思います。
特に、今回私たちが取り組もうとしている医療の質を評価する取り組みはこれまでに例が無く、『なぜそれをやらなければならないのか?』という疑問が他の方々から必ず出てくるでしょう。
その時に私たちから提示するのが『日本の国民と医療のあるべき姿』です。
これを提示できれば、『あるべき姿』と『現状』にギャップがあることが明確になり、そのギャップの背景には課題があるということがわかりやすくなります。
そうすれば、国民や代議士の先生方、省庁、民間企業などからも理解が得られやすくなるはずです」
「(さすが新垣、みんなを巻き込みながらプロジェクトを進めるのが上手い)」
松坂は自分の同級生の新垣が、事前に話し合った通りに事を進めてくれることに感嘆しながら同時に感謝もしていた。
「うん、まあ言いたいことは分かるが、この手の個人情報などが絡む話になると、必ず強烈な反対者が出てくるぞ。政党や個人を問わずにな。ここはどう対応する?」
「それに、病院側も、一部では患者データを分析されたくないと思っているかもしれない。医師にしてみれば、自分の治療が他の治療よりも劣っていることが明らかになったら、プライドを傷つけられたように感じる人も出てくるだろう。そうならないような配慮や対策が必須だろうな」
デジタル庁の濱田と財務省の楠木がそれぞれ懸念を示した。このような反応が出てくるであろうことは、松坂も新垣も想定していた。
それを受け松坂は
「はい、おっしゃる通りです。それらをこの勉強会でいずれ取り上げるのがよろしいかと考えておりました。皆様の合意が得られるようでしたら、ぜひこの勉強会のテーマといたしたく存じます。
いかがでしょうか?」
と勉強会全体に問いかけた。
他のメンバーからは異論がなかったため、
・『あるべき姿』と『現状』を整理した資料の作成
・『あるべき姿』によって国民や政府が得られるメリットとデメリットを整理した資料の作成
・『あるべき姿』に対して想定されるクレームとその対処法
・『あるべき姿』の実現までのおおまかなスケジュール
・『あるべき姿』の実現に必要なおおまかな予算の見積
などを松坂が中心に作成することとして、医療DX勉強会のメンバーの了承を得た。
この決断に際し、井出から
「その叩き台の作成は、デジタル庁が引き受けましょうか?
第1回の当勉強会でもデジタル庁がそのような役割を担うように決定したかと認識していますが・・・」
と申し出があった。
しかし松坂は
「(ここでの叩き台作成で収集する情報が、井出の勤務先のエスタブリッシュシステムズに流れそうだな・・・)」
と勘づいたため、
「お申し出、ありがとうございます。大変ありがたいお話です。
実際にこの叩き台を作成する際、弊省が持っているデータを使うことになるでしょうから、私どもから叩き台を作成させていただき、この勉強会にて皆様に叩いていただく、という進め方ではいかがでしょうか?」
と切り返した。
「その方が、叩き台作成の時間の効率は良いかもしれないな」
小川が松坂の意見に賛同した。他の楠木、徳永も松坂の意見に賛同した。他のメンバーからも反対意見が出なかったため、叩き台作成については松坂が主導で行うこととなった。
井出は松坂に対して、
「(この野郎・・・)」
という苦々しい思いを奥歯で噛み殺しながら
「承知しました。では、松坂様にご面倒をおかけいたしますが、叩き台の作成をお願いいたします。楽しみにしております」
と言い、『あるべき姿』の作成の話を終わらせた。
その後、第3回以降の医療DX勉強会で、
・電子カルテデータとそのデータベース
・レセプトデータとそのデータベース
・世帯ごとの収入等のデータとそのデータベース
について確認し、それらのデータ活用について検討することとして、第2回医療DX勉強会を終了した。
井出は、インフィニティヴァリューの吉田社長よりも、厚生労働省の松坂と小川大臣の方がより強力な敵になるかもしれないという危機感を感じながら、勉強会の部屋を後にした。
電光石火
松坂は勉強会の会議室の机と椅子を元に戻すという作業をしながら、井出が先に退出するのを待っていた。
吉田は、松坂がわざとゆっくり会議室を整頓していることを感じ、蒼生を先に帰し、二人きりになるように自分もゆっくり帰り支度をした。
二人きりになると、おもむろに吉田から
「松坂さん、今日もお疲れ様でした」
と声をかけた。
松坂も
「今日も吉田社長にいろいろとお世話になりました」
と返した。
松坂は
「吉田社長、井出さんとは、どうですか?話し合いの中で、時折井出さんが吉田社長の腹を探るような質問がありましたが」
「やはりそう見えましたか。他の省庁の方々はどう感じたんでしょうね?」「吉田社長が井出さんとかなり距離を取っているように見えるかもしれませんね。とは言っても、議論はきちんと公平になされていたと思いますし、吉田社長からの提言も有意義でした。
一方、井出さんの議論の進行のコントロールも上手かったと私は感じました。おそらく他の方々も同様の印象だったと思いますよ」
吉田は少しホッとした表情を見せ、
「ならば良かったです。メンバーの皆さんに、余計な気を使わせては、勉強会の意味がなくなってしまうので」
「ははは、お気遣いありがとうございます。遅かれ早かれ、メンバーの皆さんにも、吉田社長と井出さんがバチバチだということは分かると思いますよ。
でも、それは悪いことじゃないはずです。井出さんも吉田社長もIT業界で活躍しているのですから、同じ会議体の中で意見を交わしてやり合うことがあってもおかしくないでしょう」
吉田は少しバツが悪そうに
「まあ、それはそうですが、大臣や省庁の要職の方々がおられると、そうとも言えませんよ。
民間企業で事業をしている人から見れば、官公庁との話し合いというだけで緊張するものです」
とちょっぴり本音を覗かせた。
松坂は笑いながら
「皆さん、そのようにおっしゃいますね。そのような余計なプレッシャーを我々が皆様にかけてしまっているようでしたら、お詫びいたします」
と、松坂は頭を下げた。
吉田は
「松坂さん、やめてください。こちらがもっと恐縮してしまいます」
と慌てて発した。
松坂はニコッと笑いながら顔をあげ、また
「ははは」
と笑った。
吉田もつられて破顔した。
成功への道筋
吉田は、
「今後の勉強会ですが、どのように進めますか?話し合いのテーマは前回、今回の勉強会で大体固まったと思いますが、私どもとしては、実際にシステム化するプロセスや、その時の業者の選定方法なども気になります」
と、今の吉田の胸の中の不安を率直に松坂に打ち明けた。
松坂も
「はい、そこは慎重かつ、一気呵成に案件化して、発注先に発注するスピード感が大事な時期だと思います」
と答えた。
吉田も
「そうでしょうね。私もそのように感じています。おそらく井出さんもそのタイミングを見計らっていると思います」
と井出への警戒をあらわにした。
少しだけ沈黙の時間が流れた後、おもむろに松坂は口を開いた。
「吉田社長、ちょっとお力をお貸しいただけますか?」
「えっ、はい、それはもちろん喜んで承りますが、どのようなことでしょうか?」
「吉田社長のBIツールに関することで、2つほど試してみていただきたいことがあります。
1つ目は、今のBIツールの更なる分析機能の開発と追加です。
2つ目は、追加のデータ解析です。具体的には、まず世帯の収入や患者さんの住所と病院の住所、レセプトデータ内の検査結果の数値などのダミーデータの作成してください。そして、そのダミーデータとレセプトデータを連携させて、BIツールで試験的に分析していただきたいです」
吉田は、松坂が言いたいことをなんとなく掴んでいたが、もう少し細かい点に踏み込んで松坂の考えを確認した。
「1つ目のご依頼は、喜んで対応いたします。
その前に、2つ目のご依頼で松坂さんが得たいアウトプットがどのようなものをか、お聞かせいただけますか?
おそらく、松坂さんのイメージに近い分析結果のサンプルを作るために、1つ目の分析機能にどのような機能があったら良いかが決まってくるかと思います」
松坂は自分のアイディアを吉田に説明した。
「今日議論になった世帯ごとのさまざまなデータとレセプトデータを繋いだら、これまでなかったこんな分析ができる、というサンプルを勉強会のメンバーに見せたいんです。
その時には、現在空欄になっているようなレセプトデータの検査結果や検査値も、もしきちんと入力されていれば治療の効果がこのような経過を辿るため、治療がうまくいっているかどうかも一目瞭然になる、ということも併せて、勉強会のメンバーに理解してもらいたいんです」
吉田は心底感心しながら
「なるほど、それはインパクトがある分析結果のサンプルになりますね」
「はい。勉強会のメンバーは、今日はいろいろとアイディアや意見を出してましたが、実際にはさまざまなデータを繋いだらどのような分析結果が得られるのかを想像できる人は限られています。
申し訳ないが、大臣の皆様も簡単にイメージできないでしょう。
今まで日本の誰もが見たことがない分析結果です。イメージできないことは仕方ありません。
だから、極めて高精度の分析結果のサンプルを作成し、日本の医療のDXが進んだらこんなに素晴らしい世界が開けるんだ、この世界に至るにはこういう課題を解決しなければならないのだということを、ビジュアルで訴えたいんです。
そのサンプルを見ながら、日本の医療のDX化について、メンバー全員でより深掘りして検討してもらいたいんです」
松坂の想いと意図が明確に吉田に伝わった。
吉田は
「分かりました。では弊社の社員に早速この作業に取りかからせます。第3回の勉強会の時には、分析サンプルを皆さんにご覧いただけるようにいたします」
「それはありがたいです。ぜひお願いします。」
松坂の顔に安心の色が浮かんだ。
そして、次の言葉を繋いだ。
「それと併せて、吉田社長に念のために確認したいのですが、弊省のNDBデータと社会保険庁のレセプトデータの分析で、御社のBIツールを使ったPOC(Proof of Concept:概念実証)が進行中ですよね?」
「はい、今も厚生労働省様にも社会保険庁様にも弊社のBIツールをご利用いただいて、分析結果がどのように活用可能かをご検討いただいています」
「そのPOCは、契約を交わしていますよね?」
「はい、そうです。POCとして、という契約です。正式なご発注ではない、と私は認識しています」
「わかりました、それなら大丈夫です」
松坂は安心した表情を、吉田は怪訝そうな表情を浮かべた。
吉田は
「何が大丈夫なのですか?」
と聞かずにはいられなかった。
松坂は、質問の核心を話し始めた。
「まだ少々荒いお話なのですが、このレセプトデータと世帯関連のデータの分析の案件を御社に扱っていただくために、随意契約を取り交わせないかと考えています」
吉田は心底驚いた。
「えっ!そうなのですか?」
「はい。将来、間違いなく国をあげての案件となるこれだけの取引です。当代随一のIT技術力と信頼と実績を持つ御社こそがふさわしいと考えています」
「弊社を高くご評価いただけて、大変嬉しいです。
ただ、随意契約だと貴省との取引の透明性などで、外部からの指摘などが入ってきませんか?」
「もちろんその可能性はあります。だからこそ、御社が官公庁と取引している実績が効いてくるんです。
随意契約の場合は、
・受注内容に関する実績やノウハウをお持ちである
・過去に同じような案件を官公庁や公共機関、行政などから受注している
・受注に必要となる特別な技術や経験を高いレベルで持っていて、他に対応できる事業者がいない
・複数年にわたって継続的に受注できる
といった条件を満たす必要があります。
御社は、それらの条件のほとんどをすでに満たしておられます。あと足りないのが、『インフィニティヴァリュー社なら世帯関連データとレセプトデータを連結させて高精度な分析ができる』ということを見せつけることです。
なので、先ほどの2つのお願いをしたんです」
吉田は心の底から感心しながら、松坂に意気込みを見せた。
「なるほど、松坂さん、本当に願ったり叶ったりです。
松坂さんのご期待に添えるよう、全力でやらせていただきます」
吉田は、深々を頭を下げた。
松坂は
「吉田社長、どうぞ頭をお上げください。
こちらこそ、吉田社長にお世話になりっぱなしなんですから。
今日も蒼生さんから大変感動的で、示唆に富むお話をお聞かせいただきました。蒼生さんのお話から、一気に勉強会の話の流れや雰囲気が変わり、メンバーの議論も我々の意向に近いものになりました」
「はい、それは私も感じています」
「随意契約をまとめるには、電光石火でことにあたる必要があります。モタモタしていると井出さんたちが話をかぎつけ、割り込んでくるでしょう。
吉田社長のインフィニティヴァリューは、エスタブリッシュシステムズさんに技術の面でも費用の見積金額でも勝てますよね?」
「はい、もちろんです。我々の技術力やシステムの管理運用など、あらゆる観点でエスタブリッシュシステムズさんに劣るところはありません。むしろ、システムの安定稼働による低コストや分析結果のクオリティの高さでは、我々は世界の競合とも渡り合えます」
「それを聞いて、さらに安心しました。ぜひ、一緒に結果を出しましょう」
松坂と吉田は両手で固く握手を交わした。
数週間後、運命の第3回医療DX勉強会の開催が迫っていた。
(第十九章に続く)
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