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書を味わう

ryugonで迎えてくれる数々の書。「幽鳥の間」で、客室で、廊下で。
丸みのある独特の書は、ryugonの近くにある「雲洞庵」というお寺の住職だった新井石龍さんが書いたものです。
宿とお寺の由来、書の魅力をゆかりのある人たちに聞いてみました。

雲洞庵の歴史は古く、1300年前の奈良時代。時の内大臣、藤原房前の母親が、ここに湧き出る霊泉で、たくさんの人々を救い、結んだと伝えられています。その菩提を弔うために、金城山の麓に建立したのが始まりで、室町時代には禅寺として再興、のちに27の末寺を持つほどの大きな寺院になりました。NHK大河ドラマ「天地人」で描かれたように、上杉景勝、直江兼続が学んだことでも知られています。
ryugonとも、深いつながりがあります。龍言の名は、龍言寺の跡地に開業したことから付けられたもので、龍言寺は雲洞庵の末寺。創業者が、当時の住職、第44世新井石龍禅師に相談し、名乗ることになったそうです。そんな縁もあり、書家でもあった禅師の作品が多数、贈られました。館内では、龍言創業時には81歳だった石龍禅師の、晩年の作品を見ることができます。


「幽鳥の間」では、襖1枚に1文字が書かれて、10文字で一つの禅語を成している
各客室の名前も石龍禅師が揮毫。側面にその証が見える
上杉謙信と雲洞庵第10世の住職、北高全祝(ほっこうぜんしゅく)が交わした禅問答を石龍禅師が揮毫。川中島の合戦の前に「どんな心構えで行ったらいいか」と謙信が問うと、北高が「死ぬ覚悟で戦えば生きる。生きようと戦えば死するものなり」と答えている

味わいポイント その1
噛み締めるかの「筆運び」に注目


「半紙ともなれば、四つん這いになって、汗をかき、力を入れながら書いていた」と伝えられる新井石龍禅師。言葉の意味を噛み締め、一文字一文字にエネルギーを注いだ書には、力強さがあります。

味わいポイント その2
「禅語」に浸る


「幽鳥の間」の襖には「古松談般若 幽鳥弄真如」という一対の禅語が書かれています。意味は、「古い松の木が般若心経を談じ、山奥に棲む鳥が真実の教えをさえずっている」。つまり私たちの周りでは、森羅万象が等しく尊い教えを説き、この世界そのものが悟りの世界にほかならない、ということ。自然に囲まれたこの地だからこそ、沁み入るものがあります。

味わいポイント その1
「関防印」を見る


書の左端にあって名前や雅号が刻まれる「落款印」に対し、書の右上に押されているのが「関防印」。宇宙人にも見える、象形文字のようなこの関防印は「龍吟雲起」の四文字が篆書体で刻まれています。「ひとたび龍が声を上げると雲が起こり、虎が唸ると風が生じる。森羅万象と呼応するような大いなる力のたとえ」です。

「温かく、ほっとする」
新潟市の老舗出版社、考古堂書店の会長柳本雄司さんに聞きました


『雲洞庵の石龍禅師さま』を出版したのは1994年。収められた座談会にも参加している子田重次さんからお聞きしたエピソードの中で印象的なのは、いつでも泰然としていらっしゃったという石龍さんのご様子。海外の旅でも飄々として、その場その場を楽しんでいらっしゃったとお聞きしました。そんなお人柄が、親しみの持てる丸い書に表れているような気がします。子田さんからは、新潟良寛会の会長を引き継ぎましたが、良寛の書の中には草書体で読みにくかったり、点一つにもいろいろな意味があり、前後が分からないと読み解けないところがあります。そうしたことに比べると、石龍さんの字は、とても読みやすく、分かりやすい。同時に、ほっとして落ち着けるような温かい書です。まさに「書は人なり」ですね。

「素直で味わい深い」
「會津八一記念館」学芸員の喜嶋奈津代さんに聞きました


『雲洞庵の石龍禅師さま』の中に、会津八一が石龍師の書を認めたというくだりがあります。「この頃、大変上達されたように思う。修練を積まれた賜でしょう」と。ただ八一は、いわゆる「書家の書」を認めていませんでした。なぜなら、書家は技術や字形の模倣に重視したところがあり、揮毫した書に、その人らしさが表れていないからです。ではなぜ、石龍師の書を認めたのでしょう。「読みやすいこと」「心から湧いた心情を素直に表現していること」、そして「自分の表現スタイルを確立している」からではないでしょうか。
石龍師は、長い修行から得た体験が血肉となっていて、生み出された言葉そのものにまず、説得力があります。噛み締めるかのように運筆した独特の線は、何とも味わい深く、落款がなくとも「石龍」師の書だと分かる、個性的な書だと思います。八一はきっと、石龍師の書にその人の人格が表れているという点を、もっとも評価したのでしょう。

「自由で伸びやか」
雲洞庵の住職田宮隆児さんに聞きました


石龍禅師には、高校生の頃、お会いしたことがあります。新潟市中央区にある「ウキス興源寺」の前住職の父がとてもお世話になりまして、その縁で今、雲洞庵の住職を勤めさせていただいています。
600年前から昭和40年代まで、雲洞庵は修行道場、いわば僧侶の教育機関でした。石龍さんはとても分かりやすくお説法をなさったそうで、信者も多く、「石龍会」という支援組織もあったそうです。
書については、時に子どもが書いたような自由さがあると思います。もちろん、書の基本を踏まえてでしょうが、確かな基盤の上の遊びやゆとりを感じます。それは、伝え聞く石龍さんのお人柄にも重なります。
昭和20年代の農地解放以来、寺の運営には苦心されたようですが、雲洞庵の檀信徒とともに書や説法を通して乗り越えられたと聞いています。


春を感じるのは日が長くなり、中に太陽の暖かさが感じられる時でしょうか。雲洞庵では雪解けとともに、水芭蕉が見ごろとなります。やはり長い冬が終わるとほっとします。


右上/雲洞庵に残されている、石龍禅師の落款印 左上/本堂の内陣。力強い彫刻の欄間に注目 右下/襖の一枚一枚に、石龍禅師の書 左下/本堂の前には、上部が尖塔アーチの形になった花頭窓(かとうまど)

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