シン・エヴァンゲリオンを観て感じたこと①

最近劇場版シン・エヴァンンゲリオンを見る機会があったので、感じたことについてつらつらと綴りたい。

まず、エヴァンゲリオンについて私が知っていたことは以下の2点のみ。

①主題歌が残酷な天使のテーゼであること

②綾波レイとアスカという女子が出てくること

今作が最終作だということをどこからか聞いてはいたが、劇場版を見るにはあまりに知識が少なすぎる上に、エヴァンゲリオンのファンからしたら、この状態で見ようとする私はさぞ舐め腐っているように見えるだろう。私自身もさすがにこの状態で見るのは理解が追いつかないだろうと思い、中田敦彦さんのYoutube大学にアップロードされている前後編約5時間の動画を1.25倍速で流し聞きして備えた。最も、「流し聞き」であるから、備えたことにはほとんどならないだろうが、とりあえずどんな作品なのかの流れだけでもさらっておくことが目的だった。

そもそもなぜこんな状態なのにエヴァンゲリオンを観ようと思ったのか―理由は簡潔だ。私には妹がおり、妹がつい最近度ハマリし、一緒に観ないかと誘われたからだ。エヴァンゲリオンはオタクっぽい作品に思えていたので敬遠していたが、哲学要素のある作品だから、ぜひ一緒に観ないかと妹の熱量に半ば圧されるような勢いで、観ることになった。

前置きはここまでにして、エヴァンゲリオンを見て考えたことについて、語彙力がないなりに表現してみる。鑑賞者の価値観や作品理解度の深さによって、解釈の仕方が異なることもあるであろうが、ここは恐れずに(誰を恐れるんだという感じだが)自分の感じたことを書くので、ご了承いただきたい。

①他者がいるということ

他者がいることについて改めて考えさせられた。フォースインパクトにより魂の浄化を行い、肉体のない魂だけの世界で皆一体化すること、それによりゲンドウが愛する妻に再会することを叶えようとしている。一見すると肉体がなく魂だけになり、他者との境界さえなくなれば、痛みも辛さも何一つなく、お互いを分かり合えるような気さえする。他者と関わることで感じる喜びなら欲しい。だけれど、どうしても傷つけたり傷つけられたりすることがつきものだ。他者を理解したくて理解できなくて勝手に傷ついたり、分かってもらえないと思って辛くなったりして、人との関係を深めることに抵抗を感じてしまうことがあるのだ。しかし、人の気持ちに寄り添ったり寄り添ってもらったりして温かさに触れることができるのは、自分ではない他者がいるからだ。寂しいと感じるのも嬉しいと感じるのも、この世界で物理的に自分しか存在しなかったらきっと感じることもないし、もはや「自分」と言う存在さえも認識することができない。痛みを伴うとしても、他者の存在認識をするからこそ生まれる温かさを感じたい、私はそんなことを思った。なかなか筆が進まないことが多いけれど、自分でたまに物語を書くことがある。自分で何かを生み出そうとするときでも、宇宙空間に一人だけしか存在しない話にはどうしてもならない。誰かがいるから何かを考えることがきっと出来るのだ。だから、これからきっと辛いことがあっても、今まで自分が感じてきた他者との触れ合いによる温かさを抱いていきたいと思う。

②自己肯定ではなく、自己受容をすること

生きていると訳もなく誰かと比べてしまうことがあって、自分は全然ダメだなと思うことがある。また、まだまだ自分はこんなじゃない、まだまだやれるさと根拠のない自己肯定をしたがることがある。自分を卑下するのでもなく、自分を過大評価するのではなく、ありのままの自分を見つめること。私ははっきり言ってこれが苦手だ。どうしても今まで立派な功績や堂々と言える自信のあるものがなくて、常に常に不安を抱えて生きている。人並みに出来ないことや苦手なことが多くて、自分の存在価値について考えてしまうこともあった。人並みのことが出来ない自分にはここにいる価値があるのか、だけど、そう思われ続けたくなくて、自分なりに出来ることをやろうとしてきた。だけど、なかなかうまくいかなかった。営業職として1年半勤めた自動車販売会社での営業成績は全然振るわず、毎週上司からやる気はあるのか、改善する気はあるのか、そして職種転換について曖昧に話を振られ、その時は出来ない自分を受け入れられなくて、職種転換をした自分=営業として使いものにならない、という認識により、自分自身を騙して営業職にすがりつこうとした。そして、その会社に居場所がなくなる前に、違う場所に行こうと思って、教育業界に転職した。そこでは、会社組織としての居場所を追われるのかもしれないと思いながらも、現場での自身の居場所を感じられていたから、5年半続けることが出来た。自分なりに私が出来ることと出来ないことは何であるのか、苦手なことに対してどうアプローチするのか、自分なりに理解してやれることをやってきたつもりだ。私は人と関わることや人と話をすること(聞くこと)が好きだと、この5年半で気付いた。お金が絡む話ではなくて、その人の心を理解しようとすることが好きなのだと気付いた。だかた、次のステップに行きたくて、転職決意した。だけど、自己理解が足りずに、しかし自己理解を深めるきっかけになったのが、2週間半だけ勤めた会社だ。ただただ自分のど真ん中にすぐに進んでいくのが怖かった。修行という名のもとに、ど真ん中を避けていた。今はそう自分を理解し、今の状況を受け容れている。今の自分を見ると、無理やりな自己肯定をする気にはさらさらなれないし、無意味な自己卑下もしたくはない。ただ、今の私がどうであるか、そして、これからどうなりたいのかを考えて生きて行けばいいのではないか。

①と②を書いていて自身に気付いたことが1つある。誰かに寄り添っていきたいというのは、自分の居場所を探したいということと同義なのかもしれない。依存関係になりたいわけではない。ただ、人間は一人一人違うのだから、その違いを活かしながら、自分の出来ることと他者のピースを繋ぎ合わせるように生きていけたら、お互いが補完し合いながら生きていけたら、私も他者もしんどさを少しでも軽くして生きていけるのかなと思った。

私は、自分の居場所がほしい。安心して生きていける場所が欲しい。そして、自分ではない他者にとっても、その場所が安心して生きていける場所であれるように、私は他者と一緒に過ごしていけたらいいなと今は思っている。

またエヴァンゲリオンを見て感じたことがあったら、追記していきたいと思う。

長文を読んでいただきありがとうございました。

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