冷戦 その6 植民地の「独立」?II

検証ポイント4:植民地は本当に「独立」したのか?
植民地「独立」へ
植民地政府が、「合法的に」現地民を強制労働者に仕立て上げるには、拒否する現地民を警察が逮捕し、法廷で裁き、刑務所に連れて行かねばなりません。課税するには、現地民の人口調査をせねばなりません。このような必要性から、アフリカの地に警察、陸軍、民政管理機関、司法機関を置きました。これらの事象は、植民地政府職員を数多く必要とします。本来宗主国が必要数派遣できればいいですが、それも難しくなっていきました。そこで、編み出された解決法が、ヨーロッパ人入植者の子孫や現地民から貴族等エリート層あるいは分割統治で優遇された少数民族の若者に教育を施し、現地政府で雇用することでした。

ここから少しずつゆっくりではありますが、主にイギリスの植民地ではアフリカ人に教育の扉が開かれていきました。現在国際開発学で有名な大学が、ヨーロッパではイギリスに数多くあるのは、それらが現地民エリート向け植民地政府職員養成所であり、現地の知識を蓄積させた結果です。(日本の若者が、アフリカを救うために国際開発学をヨーロッパで学ぼうと考えたときに、これらの大学院がこのような趣旨で作られたものであり、本当に植民地経済からの脱却方法を研究するところなのか、よくよく考えた方がいいと思います。)

また、アフリカで宣教活動を行う教会も、多くのヨーロッパ人の反発に遭いながら、現地民を呼び込むために、初等教育用の学校を設立していきました。宣教師たちは、「文明化」の専門家(文化的帝国主義者とも「心の泥棒」とも。。。)を自認していたので、植民地経営に悪影響ではなく、いい影響を与えようとしていると考えていたのでしょう。実際には、教育が独立への意欲を現地民に与えたのですが。。。

さて、第一次世界大戦と世界恐慌による打撃により、ヨーロッパの経済力が衰え、宗主国は植民地を囲い込みしようという動きが出てきます。イギリスの場合、金本位制を離脱し、ポンドの力が弱まったのですが、スターリング圏内では以前のレートのままで主要な原材料を購入しようとしました。

少し脱線しますが、日本の学校では帝国が帝国内市場を囲い込みし、他国に貿易障壁を作ったことが、植民地の「持たざる国」を戦争に駆り立てた遠因の一つかのように言います。しかし実態は、宗主国が望むほど、有利なものではありませんでした。

イギリスの場合、自治領(ヨーロッパ人入植者が多く、本国政府との交渉により自治が与えられるケースがありました。南アフリカもその一つ)はイギリス市場だけでは自らの成長に足りないことに気付き、イギリスが望んだほどには関税が下がらず、オタワ会議でイギリスが損をする形での関税特恵協定が結ばれました。イギリスにとっては、世界恐慌の影響から身を守る手段程度にはなりましたが、帝国内という閉じたシステム内だけに依存しては、成長が難しいという結論になりました。*スターリング圏は緩やかな形で戦後も残っていましたが、60年代に急成長を見せた日本やヨーロッパという、より魅力的な投資先に目を向けた方が賢明と判断され、ブレトンウッズ体制の崩壊と共に、消滅していきました。

第二次世界大戦後、ヨーロッパ宗主国は自国経済再建のため、植民地を搾取する方向に向かいました。植民地で生産した産物をアメリカ等帝国外に輸出し、その貿易黒字部分で対英貿易の赤字補填(宗主国は、常に物を高く植民地に売りつけていますから)に充てるという企みですが、多くの植民地の対米貿易が赤字に転落してしまい、もはや植民地が宗主国に大きく貢献しなくなっていました。

加えて、独立を求める運動が喧しくなり、植民地政府が鎮圧しなければなりませんから、その分統治コストが上昇します。一方、インドでイギリスは興味深い経験をしました。戦時中会議派(独立運動の主体)は、「インドの実業界と合意の上で国有化の提案を取り下げ、政治財政支援と引き換えに労働争議をコントロールした。同時にイギリス企業も、30年代インド系企業との合弁事業の成長に続いて、会議派と協力的関係をとるようになった。」*この経験により、イギリスは「「責任政府」は必ずしもイギリス人の手に握られていなくてもいいということ」*を悟ったのでした。

さて、帝国主義者チャーチル首相の退陣及びアメリカの植民地への反発、という国内外の事情に配慮し、イギリスが、植民地の解放は不可逆であることを認識したとお話しました。そして、イギリスにはそれを後押しした上記経験及び、イギリス留学経験があるアフリカ人(現地民及び入植者の子孫たち)エリート層を相当数産出していた経緯があります。彼らは、「比較的穏健であり、単に国家独立を目指し、植民主義支配が資本主義の産物であるという問題を深くつかまえて進む運動はほとんどなかった」**ので、名目上の「独立」を与えることに同意しました。

一方、このような用意がイギリスほどできていなかったフランス、その他弱小宗主国は、往々にして暴力で解決しようとしました。フランスの場合、アルジェリア独立戦争(1954-62)に8年かけました。しかし、海外領土への本国政府支出額が、フランス国内で問題視されました。フランス国民の納税額の9%が振り向けられたこともあって、フランス国民が「ひょっとして、ニジェール川行政局を作るより、ロワール川行政局を作った方がよかったのではないか」***というような、海外より国内投資を求めるカルティエリスムが、湧き上がってきました。

そしてやはりイギリス同様、「植民地の心理的絆によって本国に縛り付けておくこと」***が肝要であり、「言語、思想、心理において、フランス人であるように、(中略)植民地主義的に教育されたアフリカ人エリート」***に政権を委ねたのでした。今日に至るまで、アフリカのフランス語圏をフランコフォニー・アフリカと称して、イギリスのコモンウェルス(英連邦)的な繋がりを維持しようとしています。

このような背景の下、「60年代中葉には、南部を除き、独立はアフリカのほぼ全域に広がった。しかしながら、原料供給地であり製品輸入市場であるという機能においては何ら変わるところがなかった。すなわち世界資本主義の周辺部として中心部に従属することにおいて変わるところがなかった。このことは、英仏などの企業や権益が残存していたばかりではなく、世界経済の構造が、またアフリカを周辺部に居続けることを強制したことを意味するのである。」****すなわち、政治的な独立はできたものの、経済的には相変わらず植民地経済が継続されているということです。

典型例は、悪名高きアパルトヘイト政策で有名な南アフリカ共和国でしょう。人種差別の典型と言われていますが、根本は現地民に低価格で金鉱やダイヤモンド鉱等で働かせ、入植者の末裔が搾取するための施策です。(人種差別は後付けで、現地民の搾取を正当化する言い訳に過ぎません。)起源は、南アフリカ連邦として自治領となった1910年にまで遡ります。(金やダイヤモンドを目指し多くのヨーロッパ人入植者が入植したので、割合早い段階で自治領に「昇格」しました。)当然ヨーロッパ人入植者の末裔(アフリカーナー)が自治領のリーダーとなり、ロスチャイルド家とオッペンハイマー家(デビアス社の元所有者一族)という金とダイヤモンドの世界流通(そして価格)を支配するヨーロッパ人大富豪を頂点とするカルテル各社の懐に、巨万の富が流れる仕組みのガードマンであり続けました。(近年ロスチャイルド家もオッペンハイマー家も、この支配者の座を降りているのが、不気味です。。。)

現地民への扱いがあまりにひどく、長年の現地民による抵抗と国際批判により、1994年ついに反アパルトヘイトのリーダーであるマンデラ氏が、初の黒人大統領に就任し、人種間の和解に向けて尽力しました。一瞬希望の光が見えるように聞こえますが、経済構造を根本的に変革させなければあまり意味がなく、元反アパルトヘイトリーダーたちは、恐らく「黒い霧」に呑み込まれ、前大統領は汚職スキャンダルの末服役中、現職大統領はマネーロンダリング疑惑を抱えています。

「加えて手際のよい平和裏の独立供与で、それまでの独立運動家は、社会的、国際的地位を供与されることにより、革命化する力、すなわち周辺部からの脱却を指導するような政治的力量を喪失した。ここに新植民地主義支配が新しい独立諸国全面に行きわたるようになった。」****すなわち、独立後新しいリーダーたちには、非常に大きな誘惑があります。既存の搾取体制を取り壊すより、この体制を維持したまま自分たちが搾取する側になったら?この方が植民地経済を「独立」させるよりはるかに簡単ですし、宗主国を始め国際メディアにちやほやされます。

安易な選択をした旧植民地の新しい指導者層と、旧宗主国の政財界人との癒着の産物が、銃口がどこを向いているのか分からないような、旧植民地の軍事費増大でした。その予算のおいしい部分を享受するのは、もちろん旧宗主国の企業です。「たとえばフランスやイギリスは、脱植民地化ののち、軍需を基盤とする『栄光の30年』を享受した。これが、ヨーロッパと旧植民地との特別な関係を恒常化する、『新植民地主義』」**の特徴と言えます。

さらに、経済的な独立の他に、宗主国はもう一つの「地雷」を残しています。すなわちアフリカ分割で採用された国境線です。複数民族が適度に混じり合うように組み立てられています。そして、植民地時代民族の違いを社会的差別要因として、分割統治に利用しました。アフリカ諸国が独立する際、その独立時期がそれぞれ異なっていますから、国境の不可侵原則が適用され、今日に至るまで紛争の種になっています。

よって、アフリカ諸国が一堂に会し、現地民に適した国境線に引き直すか、多民族国家として国民の多様性を尊重する社会を作り上げるか、が必要です。(事実ルワンダ虐殺を機に、近隣のブルンジ、ウガンダ、コンゴ(旧ザイール)等にツチ族対フツ族対決が広がりを見せ、中央アフリカ大戦ともいうべき事態になりました)

しかし、経済独立や国境の見直し等の課題に目を背け、リーダー周辺の少人数だけが肥え太る状況に失望した独立第二世代が、アンゴラ、エチオピア等で資本主義の代替策である共産主義に傾倒したとしても、不思議ではないでしょう。しかし、以前お話しましたように、1960年以降続く東欧の経済停滞に対し、1980年代には東アジア経済の急成長を見て、やはり再考せざるを得ませんでした。

* PJケイン、AGホプキンズ著 「ジェントルマン資本主義の帝国II」
**ウォルター・ロドネー著 「世界資本主義とアフリカ」
***マルク・フェロー著 「植民地化の歴史」
****ウォルター・ロドネー著 「世界資本主義とアフリカ」(あとがき)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?