冷戦 その5 植民地の「独立」?I
検証ポイント4:植民地は本当に「独立」したのか?
1955年のアジア・アフリカ会議(通称バンドン会議)で、アフリカ諸国は、アジアは第二次世界大戦で戦災に遭って可哀そうに、と言っていました。しかし、今日経済発展が著しいのは、戦災に遭わなかったアフリカではなく、アジアです。この差は、何で生まれたのでしょうか?ここでは、アフリカを中心に、植民地支配とはどういうことか、それからの脱却は真の意味で達成できたのか、新しい形の植民地は誕生しなかったか、を見ていきたいと思います。
アフリカが植民地大陸になるまで
アフリカで今日までなかなか開発が進まない主要な理由は、第一に植民地時代に宗主国が作り上げた植民地経済体制、第二に長年の奴隷輸出による人口の伸び悩みがあります。
ヨーロッパ人の到来時には、アフリカは強力な王国が少なく、部族単位での社会形成が主流で、部族間の抗争を繰り返していました。よって、現地の小グループ間の抗争を利用し、海岸に住む現地民に小銃を渡し、部族間の抗争で得た捕虜を奴隷として交換していました。「多くのアフリカ人支配者は、自分と利害が衝突している同じアフリカの隣人を征服するため、ヨーロッパ人と同盟することを求めた。彼らのほとんどは自分の行動が何を意味するのかを理解できなかった。さらに、ヨーロッパ人がやってきて永久に居つくのだということも理解できなかったし、彼らがアフリカの一部だけでなく全体を征服しようとしているのだということはなおさら理解できなかった。」*
一方、ヨーロッパ人も部族間の対立関係を理解し、誰が勝利しても利益が得られるように現地民と付き合うようになります。「ヨーロッパ人が、アフリカ西端のギニア・ビサウを「奴隷貿易商の天国」と呼んだのは、奴隷貿易の初めのころからここで「紛争」を利用しては奴隷を得ていたからである。」*
アフリカの働き盛りの世代が海を渡り奴隷として流出していった様を、以下の人口値がまざまざと示しています。1650年から1900年の間、アジアが約3.3倍、ヨーロッパが約4.1倍増加した一方、アフリカはわずか20%!しか成長していません。
年次 1650 1750 1850 1900
アフリカ 100 100 100 120
ヨーロッパ 103 144 274 423
アジア 257 437 656 857
この奴隷貿易の目的と言えば、ポルトガル人やスペイン人が跋扈した17世紀前半、「インドにおいて、綿布を買い、それをアフリカ東西の海岸で奴隷に換え、その奴隷を中南米の金・銀鉱山に送った。アメリカ大陸からの金銀の一部は香辛料や絹を極東から買うのに使われた。アフリカの海岸地帯が世界貿易の網に組み込まれるようになってから、世界が、メトロポール(宗主国、中心部)とそれに依存し従属する地域からなるという関係」が次第に編み上げられていきました。
この奴隷貿易を通じて、ヨーロッパが得た富は莫大です。この富を原資に、ヨーロッパでは技術革新が起こります。「新しくより優れたヨーロッパ船を建造することに費やされた費用は、インド、アフリカなどの海外貿易の利益で賄われたのである。オランダ人は、カラベル船(帆船)改良の先駆者であり、それゆえにスペイン船、ポルトガル船を追い抜いた。(中略)奴隷貿易が航海技術の絶え間ない進歩の刺激剤」*でした。
加えて、ヨーロッパ諸国間の経済リンクも刺激していました。例えば、「カリブ海の粗糖は、イギリス、フランスから他のヨーロッパ諸港に再輸出された。ドイツのハンブルグは、18世紀前半においてヨーロッパ最大の製糖業の中心になったほどである。(中略)リスボンやセビリアの市場の背後には、ゼノアの金融業者や承認が動いていた。一方、オランダの銀行家は、スカンジナビアとイギリスとをつなぐ役割を演じた。」*
一方、何世紀も働き盛りを奪われたアフリカは、様々な点から悲惨です。まず、奴隷獲得のために、戦争の数が増加し、不安定な社会になりやすいです。また、まだ医学が発達していないこの時期、動物を媒体にする病気に対し、病死者数より多くの新生児を産むことで克服していた社会では、人口の多くを奪われればその地を捨てざるを得ませんでした。
加えて、ヨーロッパ諸国は自国の工業製品(繊維等)を持ち込むことで、現地産業を破壊しました。ヨーロッパ製品を生産するために作られた機械こそ、奴隷貿易による富で作られたものであることが、痛ましいくらいに皮肉なことです。ちなみに、インドでも同様のことが起きました。イギリス人を始めヨーロッパ人は、当初インド綿織物に非常に魅せられました。そのためマンチェスターに綿花を集中させ、そこで機械生産した綿織物をインドに逆輸出したため、その安価さゆえに、インド綿の家内工業は、壊滅的ダメージを受けたのでした。その一方で、アフリカがヨーロッパの技術移転を求めても、故意に無視していました。
このように一方的に、ヨーロッパ優位で進められた貿易関係は、やがて植民地化へと変貌します。不幸にしてヨーロッパの複数国がアフリカへ進出した結果、いつ横取りされるか知れぬライバル国の企てを予め封じるために、地図の上で出来得る限り土地を確保しようという動機が生まれ、経済性は後から考えるといわんばかりに、いわゆる「クロスカントリー・レース」が展開され、アフリカ全土をほぼ覆いつくしてしまいました。なお、アフリカで独立を保てた国は、エジプトとエチオピアのみです。(ここに、彼らの高いプライドの源泉があります。)但し、エジプトはイギリスの保護国であり、エチオピアは一度イタリア軍を撃退したのですが、第二次世界大戦直前にムッソリーニ率いるイタリアに再度攻め込まれ、植民地化されてしまいました。
しかし、クロスカントリー・レースがアフリカ全土を覆いつくすと、後発宗主国ドイツのビスマルク宰相の呼びかけでベルリン会議が開かれ、参加した14か国だけでアフリカ内の縄張りを勝手に決めた上、「他国に通知せずに無秩序な土地取得をしないことを約し、抗議ができるようにした」**一方、「アフリカの民族や国王はというと、無価値の物(レス・ヌリウス)とみなされ、これらの論議のどれひとつとして相談を受けることはおろか、知らされることすらなかった。」**
植民地経済体制
ヨーロッパは、アフリカ各地を植民地化し、「合法的に」植民地経済体制を作り上げていきました。
植民地経済体制とは、宗主国、及び宗主国出身入植者の利益になるよう、
1.現地民を安価な労働力として確保する
2.現地民を宗主国企業の求める産物の生産に従事させる
ことです。ほとんどの現地民は農民であり、自給自足経済に生きていますので、必ずしも100%宗主国企業の求める産物を生産しているわけではありませんし、したいとも思いません。
そこで、まず植民地政府は、農民から土地を取り上げ、狩猟民族には狩猟を禁止する法律を作り、(現金)課税します。ヨーロッパ人入植者が多ければ、彼らにだけ分配し、プランテーション経営させればいいわけです。すると、生活手段を奪われた現地民は、宗主国企業が人材募集する産物の生産労働に従事せざるを得ないわけです。ヨーロッパ人入植者が少ない場合、現地民に綿花や落花生等換金作物を栽培するよう、強制したのでした。
加えて、現地の産物をできるだけ大量生産するために、宗主国は植民地をいわゆるモノカルチャー経済に変換させていきます。従来の自給自足経済では、一定数の現地民はヨーロッパでは高価値な産物を生産していますが、その他は食物等を生産し、その経済圏内でモノが循環することで自給自足できています。しかし、ヨーロッパ人にとり、現地民はできるだけヨーロッパにとり高価値な産物に特化して生産してほしいわけですから、現地で食物はほとんど生産されず、宗主国企業がもちこむ食物や生活物資を輸入することで、現地民をできる限り特定の産業に従事させることになります。これで、宗主国に依存せざるを得ない、モノカルチャー経済が誕生します。
すると、天候不順等の理由で産物が不作だと、たちまち飢饉が発生します。当然宗主国企業は、輸入食品や生活物資の価格に対し、現地民の労働対価が非常に安く設定するわけですから、飢饉が発生すれば、弱い立場の現地民から餓死者が発生します。結果、「単に周期的飢餓をもたらしただけでなく、慢性的栄養不足、栄養不良の状態を作り出し、アフリカ人を肉体的に悪化させた。」*また、不自然に特定の作物を栽培しようとすると、自然環境の許容以上の水を使用する、熱帯雨林を新規栽培用に伐採する等、環境面でも悪影響が発生します。
では、ヨーロッパが欲しがったアフリカ産品とは何でしょう?筆頭は、鉱山資源です。アフリカ南部や黄金海岸で産出される金、ダイヤモンド、マンガン、ウラニウムがあります。このほか、リベリアはゴム、黄金海岸(現ガーナ)はココア、ダオメーと南西ナイジェリアはパーム(棕櫚)産品、スーダンは綿花、タンガニーカ(タンザニアの大陸部分)はシザル麻、ウガンダは綿花、セネガルとガンビアは落花生、といった具合です。
*ウォルター・ロドネー著 「世界資本主義とアフリカ」
**マルク・フェロー著 「植民地化の歴史」
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