近世・宗教革命、民主化、産業革命

近世は今日の世界を形作る、多くの事象を説明し、方向づけた出来事が盛りだくさんなだけに、本当は何を意味し、後世にどんな影響を与えたのか、よく味わっていきたいと思います。

宗教革命
当時ローマ法王庁はイタリアの一部を教皇領として持ち、他の世俗君主同様にぜいたくと戦争で浪費を尽くし、法王を決めるたびに実弾が飛び交う状況でした。そこに、実家の財産に物を言わせてメディチ家出身の法王レオ10世は、ルネッサンス期の傑作として有名な芸術品の代金等諸経費を賄うため、免罪符を発行し、購入した魂は救われると言い出しました。ドイツのルターがこれに真っ向から反対し、聖書と個人とが向き合うべきとし、ヨーロ
ッパは以後保守派のカトリック対革新派のプロテスタントに分かれ、各所で戦争に至りました。

以上が教科書的な定義ですが、ここで大きく2点考えていきたいと思います。1点目は、「なぜ大規模な戦いとなったのか?」王侯貴族等がこの戦いに参加しなければ、例えばドイツで行われた30年戦争等は起こりえません。背景には、キリスト教会の力が強すぎ、その財産が免税対象であるのに対し、以前お話した通り王侯貴族等は度重なる戦争で慢性的財政難であったことが挙げられます。つまり、世俗的な王侯貴族等は何とかして教会に課税したいと考え、教会の力をそぐため、反カトリック側に回ったのでした。

実際、イギリスではカトリック教会の財産を没収した結果、国王の収入は倍増したといいます。うまくこの流れをチャンスにしたイギリスはその後覇権国として繁栄を極めますが、逆にカトリックであり続けたフランス、ハプスブルク家(スペイン、オーストリア)はプロテスタント国家より繫栄した時代を長く謳歌できませんでした。何事も、先立つものは必要ということですね。

実質宗教戦争に終止符を打つことになった、30年戦争講和条約のウェストファリア条約で、宗教の自由が確認されたと共に重要な点は、各国政府(宮廷)はその領土において支配権を確認した(領土内の全団体・個人へ課税可能)です。この原則から、政府同士が何らからの条約に至った場合は、それぞれの政府の領土において合意内容の徹底を政府が保証することに援用されます。これらの原則を以て、近代国家が定義されたと解釈されます。(こ
の原則に親しんできた欧米が、幕末期の幕府と朝廷の関係を、さらに現代イランの宗教指導者と大統領の関係を理解するのに苦労している理由は、ここにあります)

2点目は、宗教(・倫理)と商業の関係です。キリスト自身「貧しい者は幸いである」というほど、裕福な人々が信徒となる想定はあまりなかったかもしれません。キリスト教では、高利貸以外にも商業での過大な利益を得ることに対し、魂は救われないと言っていました。一方、皮肉なことに、教会は寄付金の上納という、世界各地からローマへの大きなカネの流れを作っていました。献金を続けなければ牧師も出世できないのですから、毎年欠かさず行われます。しかし、当時の旅は物騒ですから、輸送中強盗にあってしまうかもしれません。加えて、前回お話した香辛料の代金の流れも、ヨーロッパ各地からイタリアへと流れが同じで、相殺できませんでした。。。

そこで、誕生するべくして生まれるのが手形となり、両替となります。いわば、銀行の原型であり、イタリア商人が中心となり少しずつ主要都市に支店ができるようになります。そこで、手数料、利子をとる金融商品を新開発するたびに、商人の魂は救われるのか?と地元の教会に問い合わせがなされます。メディッチ家の創始者コジモ(有名なロレンツオの祖父)等は教会に多額の寄付を行い、巡礼の旅にも出かけました。それほど当時は切実な悩みでした。

こうした商人の悩みをうまく解決したのがルターに続くプロテスタントのスター、カルヴァンです。彼は利子を5%に制限することを条件に金貸しを容認、貨幣を資本として運用することを擁護しました。このため、元祖ルター派よりもカルヴァン派の方が広く受け入れられました。この禁欲的制限はいつの間にかどこかに行ってしまいましたが、このような倫理的解放は、プロテスタント国家にとり繁栄への重要な布石となりました。

そもそも、商業がキリスト教(そしてユダヤ教、儒教)で蔑視されていた理由は、他の産業は物を生み出すのに、商業では者として何も生み出さないのに利益だけ生み出すのは「不自然」に解釈されたからでした。ゆえに、利益追求行為は「吝嗇」、「拝金主義」として蔑まれ、むしろ伝統的な生活ができるだけの労働さえすればそれ以上は働きたくないというのが、主流でした。昨今日本でいう、出世したくもなく、できるだけ親のすねをかじり、少々遊ぶカネがあればいいという若者の風潮や中国の若者の「寝そべり主義」も同類の思考回路でしょう。

さらに、社会が複雑化していく中で、古代からの倫理体系と商業との関係を見直すという意味で、このパラダイムシフトがヨーロッパで浸透し、中国で浸透していなかったことが、実は世界史的に大きなターニングポイントなのです。すなわち、明の時代海禁政策をとり、明海軍を潰し、往来していたインド洋や東南アジアでの制海権を自ら放棄しました。(鄭和の遠征は例外)明は財政難から、モンゴルとの差別化を意識し、儒教的な商業を下品と考える思考より商業から撤退し、農業基盤と国内生産の再建に集中した結果、中国は世界の覇権を握る機会を逃したと、歴史学者アブー・ルゴドは指摘しています。*

屈辱の150年として100%被害者の顔をしている中国には、自分たちの先祖の選択が原因の一端を担っていることをよく認識しておくべきでしょう。

イギリスの民主革命
読者の皆さんは、民主主義は何がいいのか?と聞かれたら、どう答えますか?(著者は、中国の方から質問されたことがあります。)

イギリスでは、国王を処刑、追放した結果、オランダに嫁いだ国王の娘夫婦をイギリス国王として迎えました。迎えるに当たり、イギリス国民は国王夫妻によくよく念を押した事項があります。それは、「勝手に課税するな」です。

以前お話しました通り、近隣諸国と頻繁に戦争をしていた時代、国王が戦費調達に考えることと言えば、課税か借金です。ヨーロッパでは遺産相続を引き金に戦争が始まり、その度増税されてはたまりません。よって、議会の承認なしに増税や新たな新税を課税してはいけないと言い渡しました。

これが最初の憲法(マグナ・カルタ)と言われますが、初めて王権に対する制限(王位よりも高位の法律=憲法)が誕生しました。これにより、現代用語でいえば民間セクターに富が他国よりも多く蓄積されるようになった他、皮肉な副産物が生まれました。すなわち、国王に課税の制限が加わることにより、戦争を行う前に財政的に慎重にならざるを得ず、他の王侯貴族と比較した場合、戦費の無駄遣いが減る分信用度が上がり、例えばイギリスが5%ならフランスは7%、という具合に借金する際の利率が低くなりました。この金融上の優位性が後々響いていきます。

さらに民主化の効果は、国王以外の視点(視点の多様性)が政治運営に追加されたということです。すなわち、議会に発言権が与えられることで、国民(当初は貴族や大地主のみですが、徐々に国民全体へ)の視線で政策が採用されるようになります。徐々に、当然戦費は削られ、富国政策や福祉政策に財源が充てられるようになります。

さらに、視点の多様性を維持している限り、長寿な政体になりました。国民の不満が高まれば、定期・不定期に行われる選挙の洗礼で政権・政策を覆すことができるため、混乱・流血覚悟で国家そのものを転覆する試みが格段に減少したからです。但し、リーダーの思考は非常に短期志向に、意思決定にかかる時間は長くなってしまいますが。。。

比較対象として中国を考えてみますと、清までの歴史は国家統一した人物が皇帝となり王朝を開き、300年程度で衰退し、反乱期、あるいは国家分裂期を経て再統一を繰り返しました。この期間、一貫して皇帝とその親族・宮廷が意思決定権を握り続け、王朝転覆まで視点の多様性を持ちえませんでした。国民の不満を意識するのは通常転覆される直前で、混乱が長期化します。この混乱で恐らく後世に伝わるべき技術や才能が多く失われたことでし
ょう。

このように比較すると、国民の不満を300年程度溜めて一度に噴火させる易姓革命よりも、国家崩壊の混乱を避ける方が、望ましいのではないでしょうか。(習政権が主張する、独裁政権による意思決定・トップダウンによる効率性については、近現代の部で触れたいと思います。)

産業革命
産業革命はなぜイギリスではじまったのでしょう?ここまで読めば、1.宗教革命でカトリック教会の財産没収により国家収入が倍増した上に、2.倫理的に商業蔑視がなく、3.民主化により、他国であれば戦費用に課税されたはずの富が民間セクターに蓄積され、ワットのような発明家に資金提供できる社会があったから、と思い至るかと思います。

しかし、大事な点がもう一つあります。それが、民主化により初めて資本家側の立場に立つ政府がそこにあったから、なのです。すなわち、それまでは政府は新技術の発展に消極的でした。例えばミシンを作ってしまったら、お針子は皆失業してしまい、国王へ苦情が来てしまうではないか、と洋の東西を問わず多くの国で真剣に考えられていました。こうした理由により、中国では水力紡績機の開発を禁じ、世界の先端であった時計技術も葬り去ったといいます。

しかし、一つの政府が技術革新を許し、高品質・低価格商品が量産されてしまえば、他国も産業組合の苦情や反発を危惧するどころではなく、急いで導入しないと国内市場が席巻され、国力の差が大きく開くリスクが高まり、イギリスから他のヨーロッパへ、世界へ産業革命は伝播していきました。

最後に、国際政治学者の大家ポール・ケネディと歴史学者の大家ジャレド・ダイアモンドの言葉で締めくくりましょう。決してヨーロッパが特別優れていたわけではなく、意思決定の多様性のなせる業であることを指摘しています。

ポール・ケネディ 「大国の興亡」
「経済面での自由放任主義と政治的・軍事的多様性、知的な自由とがいっしょになったものであり、これらが互いに作用しあって、「ヨーロッパの奇跡」を作り上げたのである。(中略)これらの重要なファクターの混在が明にも中東やアジアのイスラム帝国にも、あるいはこれまで見てきたどの社会にも欠けていた。」

ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」
「(中国では)政治的に統一されていたために、(中略)一人の支配者の決定が全国の技術革新の流れを再三止めてしまうようなことが起こった。これとは逆に、分裂状態にあったヨーロッパでは、何十、何百といった小国家が誕生し、それぞれに独自の技術を競い合った。一つの小国家に受け入れられなかった技術も別の小国家に受け入れられた。」

*アブー・ルゴド著「ヨーロッパ覇権以前」(アジアに関する箇所は刺激的です)

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