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定住せず、遊動狩猟民的に生きるスタンダードもありなのかな

  一万年くらい前から始まった定住生活にまだ慣れてない人類は、そもそも必要がなかったはずのトイレや掃除を身につけるためにたくさん訓練しないといけない。一方で、遊動狩猟民だった頃は探索能力を使って忙しかったからある意味充実してたけど、定住を始めたら暇ができて退屈と戦わなきゃなくなった。自分を興奮させ充実感を得るために心的世界が拡大され、文明の発展を急速に後押しすることとなった…。

  …という感じで書き始めました。ゆきちかさんです。ずっと積ん読状態だった、國分功一郎さんの著書「暇と退屈の倫理学」を読み始めました。今のところ第3章です。私の感じていたことと重なる部分も多く、とても楽しく読み進めています。

   定住をし始めたことで、変化に対応するための能力全般を持て余すことになり、じっとしていられない人類は、能力使用による興奮状態で充実感を得るために不幸や面倒事に飛び込んでいく性質を備えてしまった…ということで、ざんねんな生き物図鑑に人間を掲載すべきではないかしら?と思いました。

  私自身、過去の引越し経験や、そもそも掃除や片付けは大の苦手だった…と振り返り、遊動狩猟民要素が強く残っている方の人間だと思います。児童養護施設での今の仕事も、環境変化の早さや日々お手伝いに入るホームが異なるといった点で非常に遊動的で、能力使用の充実感を得ている実感もある、というあたり、もう納得感しかありません。

  世の中では長く歩いて移動するロングトレイルや一人キャンプといった遊動狩猟民的な能力をふんだんに使用する活動が行われているなあ、と思います。

  著書の中では、定住中心主義を前提としたものの考え方について記されていますが、定住に向かない人の存在ってあまり重視されないよなあ…と振り返りました。
  予定調和で平坦な学校よりも、野山や都会のジャングルに放った方が活き活きとして能力を伸ばしていけるタイプの子どもってたくさんいるし、遊動的な教育や、何なら遊動的な生活スタイルで育っても良い、という幅を設けたら無理が減るのではないか…?と考え始めました。
  そういう意味じゃ生活場所が比較的短期間で変わる児童養護施設の仕組みもアリなのかもしれない…?定住が全てじゃない、という幅は設けられるのか…。

  あともう一つ。「住む」について。「住む」を人類の根底を説明する言葉として考える定住中心主義。住むことそれ自体ではなく、私たち児童養護施設や心理学界隈で時折聞く「心の中に住む」という表現とも何か結びつきを感じます。
  特定の場所や物にこだわらない遊動狩猟民的な表現を持ち込めば、一時的な関係づくりとすぐ関係を解いて過ぎ去る人間関係スタイル(つまり心の中にも他者が長いこと住まない)があり得て良いのかもしれません。人類は未だかつてないほど移動する時代を生きているし、人類史上では短期的な定住生活は次第にバランスが変わっていくのかも…??
  定住しない生き方のヒントは、定住せずに大人になる子どもたちの中にあるかもしれない。おお、児童養護施設で働く動機付けを一個増やせたかもしれないぞ!まだまだページは残ってるし、楽しんで読もうと思います。

ゆきちかさん


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