児童養護施設、見守られる安心感で超躍動!?(子どものファンクラブ会員になる)
こんにちは。児童養護施設で働く心理職の傍ら「ゆきちかさん」という名前でnoteを書いています。
このnoteは、児童養護施設の検索結果をよりグラデーション豊かにしよう!という目的で書いています。
今日は先日リツイートした、こちらの記事への感想から派生した雑感についてお話しします。
見守ってもらえる安心感があると躍動できる
これは、誰においても、また組織のようなまとまりにおいても言える話だ、と思い返しています。
ファンとか、サポーターとか、あと特定の人やグループを応援する人たちの俗称ってよくあると思います。いずれにしても、その中心にいる人を、文字どおり後押ししている。肯定的な見守りがかっちりハマれば、その中心にいる人は、見守られる安心感の中で、主体性を溢れさせて躍動する。
もしそれが、「躍動」から「飛躍」へと発展する物語に加担していれば、力を貸した人も、興奮と感動が得られること間違いなしだと思うのです。
そうなったとき、どの立場であれ、関わりあった人はそれぞれ
「躍動させ、また躍動させられた人」になれると思います。
その関係性は、贈り、受け取り、また贈る、という価値ある共存関係だと思います。
「当たり前の生活」保証も大切だけど、ファン活動でワクワクしたい
社会的養護に関わる権利保証として、「当たり前の生活」という言葉が使用されています。21世紀に、こんな貧困を強いられる子どもがいるなんて!?というケースも多々存在し、そのような権利侵害状態に対抗するための意味を持っている言葉です。
そのような意味において、全く異論はなく、嫌いではないのですが、「当たり前」という言葉の性質上、「大多数の人の平均値」のような印象を持ってしまいます(※私個人が勝手に感じるイメージです)。
私の持っている欲求としては、当たり前≒平均値化する、ということよりも、ブッとんだ個性に魅せられて、後追いしちゃうファンの活動をして、ワクワクして過ごしたいと思っています。
実際に、施設生活の枠に合わせるように、個性の爆発を「ほどほどにお願いします」とお願いせざるを得ない子どもが施設にはいます。社会における価値のあり様が急速に変化している今、特に、所属する企業やコミュニティよりも個人に価値が見出されていく流れにおいては、既存の仕組みが得意とする「平均値化」ではない手法が活きるのではないかと思っています。
とりあえず今日はこのへんで。
ゆきちかさん
自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!