ビッグバンから始まって、録画のカリオストロの城なう。

日曜の午後、施設では中高生数人がリビングでカリオストロの城の録画番組を見ていた。

私はその後ろで、巷で売れている某人類の歴史本(今は上巻の終盤)にのめりこんでいた。

ビッグバンから現在というスパンで見た人類種の時間の歩み。

私もきちんとDNAを受け継いでいる生物学的な歴史と、
私が意識せず恩恵を被りまくっている文化の歴史。

種族間でも、人間同士でも、相当血なまぐさい出来事の積み重ねの上(というか後)に私達はこうして生きているのね!感動!

本の文章に表れる数千〜数万年単位の時間移動と、目の前に生きている子ども達と、画面上で動く二次創作された世界が全部繋がっているように感じられ、何とも味わい深い読書になった。

いや、実際に繋がっている。
過去のその時に生きた誰かを想像するように、私も未来の誰かに想像される。

狩猟採集民族の足手まといになって、集団の存続のために、文字どおり切り捨てられた人の描写のように、もしくは、貨幣制度の発展に際して物々交換に出かけた靴職人のように、私も想像されるに値する。

これは私にとっては希望のように感じられた。
無残な死、とか、無駄死に、のように表現されるような最後を迎えたとして、その後の人類種の歴史から振り返ると、何らかの意味を読み取ってもらえる。大きな流れに集約されて、巡り巡って下流の誰かに恩恵をもたらしうる。

生きてる間に認めてもらえたらそれは嬉しいことなんだけど、今じゃなくても、誰かに私の生きた意味が見出される可能性があるなんて、何だか既に人生に勝利した気分だ。ノーベンバーズの曲の歌詞にあった、何をしても良いし、何をされても良い、というのを思い出す。

その昔、価値のない自分のために他の命が無駄に消費されたと判断を下し、物語に登場するような悲しみの主人公と同化する思春期があった。その当時の感覚を思い出しつつ、この度である。

どんな過去の出来事も、後々じっくり眺めて検証してみると、良い悪いで判断できない。
特に誰も悪者扱いしなくて良い今の自分が気持ちいい。

そうこうしている内に、時計塔の仕掛けが発動して、古代ローマの街並みが現れた。その昔の奴隷が頑張って作った街並みが、ファンタジーの中の大泥棒のポケットに入らないお宝として描かれ、エンディングに花を添えている。(この映像作品が届くまでの過程における文化や経済の仕組みに考えを巡らせても感慨深い気持ちになれた!)

私がする(もしくは既にした)事が、こんな経過を辿る事がありうると思ったらワクワクする。とりあえず中高生にやる事なす事お任せして読書に熱中してたら、ちゃんと何の本で何が面白いのか聞いてくれた。楽しい週末だったなあ。

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!