自分のずるさにお困りの方へ。

ずるさについて、つらつらと考えた。

ググって出たデジタル大辞泉(小学館)さんによると、「狡い」は
「自分の利益を得たりするために、要領よく振る舞うさま。また、そういう性質であるさま。悪賢い。こすい。」とのこと。

気になったのは、「ずるい」と思われたら、そして文句や仕返しを受けるようなら、そしてそしてそれで折れてしまうようなら、決して「要領よく振る舞う」ことができていない、という点。

「自分の利益を得たりするために、要領よく振る舞ったつもりが、他人の不平不満を買い、悪い印象を持たれてしまったさま」こそ「ずるい」状態なのではないか。

とすると、ずるさを極めたら、単なる「すごいできる良い人」が出来上がるのではないだろうか。
ずるさを極めた人の側にいた方が、「この人すんごく要領良いよな」と気分良く過ごせるのではないだろうか。
本当に要領が良いならば、多少批判やクレームを受けるような事態になったとしても、きちんとリスクを取ってピンチを乗り越える賢さがあるだろう。

この点では、私は賢そうに振る舞いたい(バカと思われたくない)気持ちで焦って失敗するので、「ずるさ」も低レベルだ。今はいくらかマシな「ずるい奴」になった(ずるい自分も受け入れた)つもりだけど、少なくとも過去には他人様の考えを自分の都合の良い方向に持っていくために努力を重ねた。

努力の甲斐があって、多少ずるい行いがあっても、スムーズに事が運んだり、「こりゃ思惑がバレてるな」と思っても相手が叩いてこなかったり、まあまあうまくいくのである。相手からすると、時間を割いて叩くほど価値がないというだけなんだけど、自分にとっては「よし!うまくごまかせた!」と成功体験になってしまう。「あなたもこの点がずるいよね?こっちだって気づいているんだからね?お互いに黙っていようね?」と相手のずるさと寝てしまうこともある。

何だか書きながら自己嫌悪みたいな感覚が出てきたなあ。。。

いや、そうそう。これこれ。

どんなに他の人の目を欺いたとしても、ずっと見ている奴がいる。
世の中の価値観を忠実に守るべく、叩いてくる「自分」という存在が。
別の名を、「三つ子の魂」とも言うのかもしれない。
小さい頃に教えられ、内在化した価値観だ。
社会の基準を守るためのありがたい贈り物だったのかもしれないけど、テクノロジーの発展に基づく社会の変動にすんなり対応できるバージョンじゃなかったので正直苦しいところがある。他の人に叩かれないように下手なずるさを身につけてしまい、アンインストールに手間取って、30を過ぎてやっとネットの世界をヨチヨチ歩いている状態だ。

さてさて、愚痴っぽくなりながらも人生を力強く歩んでいる私は置いておこう。言いたいのは多分次の部分だ。

この強固な価値基準で武装しているお邪魔な自分を黙らせるには、結構な口止め料を払う必要がある。
自分を正当化するために日夜頭を動かして自己弁護しなきゃないとか、
そんな自分に向き合っていられない忙しい状況を作ったりとか、
面倒臭い奴に絡まれるように振る舞って困る人脈に飛び込んでみたりとか、
後は何かしら脅迫症状や心身症みたいな症状作るとか?

共通するのは「休めない」ってところか。

いろんな問題の中核が見えてきますな。
緩んだら、ちょっとやそっと謝っただけでは許してくれない自分に向き合わなければならない。

ほら、自分に自分を否定されるって、本当に辛いじゃないですか。
無意識に逃げちゃうのもしょうがないよ。下手なだけで、ずるくなんかないよ。

ということで、今日の着地点は、

「下手なずるさはコスパが悪い!価値基準、お前の方が変われや!」

です。


もし自分のずるさでお悩みであれば、まず最初は安心して荷下ろししていられる場を作ることだと思います。自己否定に陥らなくて済む場所、時間。本当に、本当に自分はずるいのか?その判断はかなーり後まで決めずにとって置いて良いのではないでしょうか。


今日もワクワクしたまま書き切りました。
お付き合いいただいた方、どうもありがとうございます。

ゆきちかさん

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