敵ありきの物語

ものを二つに分けて、一方の立場に視点を起き、もう一方との違いを述べる。
相手側の発する何かに自分が傷つけられた(と感じた)時、守りに入ったり、相手を遠ざけたり、影響力を下げるように働きかけたり、まず何でもできることをやる。とても自然な動きだ。

そして、「“可愛い”は作れる」というコピーをもじった、

「“憎っくき敵”は、作れる」が今日のテーマ。

私も憎っくき相手に出会うとやっちゃうんだけど(つまり傷つけられた時、自分の価値を損なうようなことをされた時)、とにかく相手を論破してやっつけたくなる願望を脳内で繰り広げて時間を費やしてしまう。


傷つきを乗り越えるために役に立つ時間でもあるんだけど、「ああ、嫌いなあの人のために時間使っちゃった・・・」という罪悪感がセットになり、もう一段階傷ついてしまう。

踏まれた足を自分の足でも踏んでしまったような痛さ。

これまた悔しくて、相手に負けてしまう自分の克服のために、またもや相手を論破する作戦会議とシミュレーションをしてしまう、という負のループの出来上がり。

最近はこの地獄のメリーゴーラウンドから勇気を出して飛び降りる術を身につけつつあるんだけど、飛び降りてから振り返ってみると、「これ結構時間潰すのに使えるよな・・・」と思うようになった。

地獄のメリーゴーラウンドを飛び降りた後にあるものって、実は「時間を何か有意義なことに使いなよ」という自由でありながら、「その自由を有意義に使えるかどうかは君次第だよ」って迫ってくるものでもあるのだ。

「自分の力で自由を謳歌できなかったらどうしよう。そうなったらそれこそ損だよ、おーこわ。」と不安に駆られて、そしてその不安に狩られてしまうような人ならば、回れ右してメリーゴーラウンドに戻っていってしまう。

きちんと相手にとっての敵として自分を作り込み、敵がいないと存在できない自分を作り出す。
相手が敵認定をしてくれて、自分の敵として戦ってくれる環境が整えば、相手との戦争経済で生活ができるようになるかもしれない。決して良い気分じゃないだろうけど、うまく相手を叩ければ快楽物質が出て生きていけると思う。

さて、身近にもそういう人はいるし、ネットでもたくさん見かけるし、対人支援のお仕事してるし、というか私もその戦争経済に仲間入りしていておかしくないし、同じ社会の中で一緒に生きていくことを考えている。

味方って誰になるんだろう?
「敵の敵は味方」って言葉はあるけど、じゃあ敵の敵の敵は、敵か味方か?
敵の敵の敵の敵は?
周りのみんなが全部敵に見える時、敵の敵が自分一人の時は?
自分が自分の敵になっている時は?

考えていくと、敵は自分の中にばかり存在していると思えてくる。
想像の中の敵の顔の皮を剥いでやると、自分が変装した姿だってわかるかもしれない。
モンスターエンジンの「暇を持て余した神々の遊び」を思い出す。

自分「くっそー、お前を、殺してやる!」
敵「やめろー、うわー!」
敵の顔の皮ベリベリベリ
敵「私だ」
自分「なんだお前も私だったのか」
敵「暇を持て余した」
自分「私の」
二人「“遊び”」


ゆきちかさん

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