施設長と話す

施設長と話をすると、大概タイムスリップする。施設長が、である。

私が働く施設はまあまあ歴史がある方で、施設長も指導員上がりの、児童福祉一筋の、そして熱意の人なので、今より何かと大変だった時代を指導員として生きた経験を語り出すと長い。

すげー長い。

長い上に感情が乗り、困ったことに今の若手批判に転ぶことがある。自身の家庭を半ば放り出すように時間をかけてきた経験から、家庭との両立を図ろうとすることに熱心な今の若手を受け入れ難いようだ。職員と施設長はいろんな話をするが、様々なスタート地点からこのルートに繋がる。いろんな現場であることなんだろうけど、激務の最中でこれをされると、職員の多くは腹の中のマグマで火傷する羽目になっている。

私も例外ではなく、この施設長の言い方に反発、というかもう論破してぶっちぎってやろうと意気込み、でもでもだけども論を投げ返してきた。やる気に溢れていた。どっちかというと“殺る気”の方のやる気。私の若々しさを燃やす相手として良い相手だったと今は思う。とりあえず何度も過去に戻る経験を繰り返していて、タイムリープで過去を変えようと試みる主人公のような気持ちだった。

こんな過去形で書くと、施設長の考えに傾倒してすっかり矯正された人のように思われるかもしれない。じゃなきゃ燃え尽き寸前のお疲れ人だろうか。

一応自分としてはどちらでもなく、目的的に関われるようになってきたと思う。結論から言うと、ちゃんと聞いた方がうまくいった。

今の困った仕組みがなぜ存続されているか、経緯を聞いたほど、無遠慮に踏み荒さずに事が動かせる、というのがポイント。

仕組みができた背景に、その時を乗り越えようと頑張った感情体験が絡んでいる。いらないもの扱いされ、捨てられそうになると、自分のことを否定されたと感じて守りたくなる。手放せなくなる。

おお、なんと!辛い経験をしてきた子どもに対するお手伝いと一緒じゃないか。子どもに対しては、大人が子どもの過去を大切に扱うことで、新しい変化への道筋まで寄り添って歩くじゃないか。

同じ人なのに、子どもの過去は認めて、年長者の過去は敵対視してしまう。余裕ないし、年長者が作った社会に育てられた子どもとして駄々っ子したい気持ちもある。

楽しい遊園地に連れてってもらいたい。

好きなおもちゃを買ってもらいたい。

甘えを受け入れてもらいたい。

願いを叶えてくれない大人なんか大嫌い。

多分そんな気持ちだったんだなあ。

この辺の気持ちを整理できてきたとは、私も大人になってきた。施設長に対しても、というか、施設長が生み出す子どもの環境に対して養育者目線で関わる気になった。(決して施設長を子ども扱いするわけじゃないよ?というか、子どもも子ども扱いしていないよ!)

今より後に生まれてくる世界に対して親の立場を取る。確か東浩紀さんの著書の「ゲンロン0 観光客の哲学」の最後がそんな感じの言葉で締めくくられていたはず。

ということで、同じ職場の年長者にお困りの方は、嘆いたり喧嘩したり陰口叩いたりする前に、年長者の話を聞こう!でも聞く余裕の有無とか準備はしておいて、話を聞いた後は、ちゃんと自分の意見も言おう!年長者の気持ちも自分の気持ちも、どっちも大事だから!

てことで、今日もお付き合いいただいてありがとうございました。

ゆきちかさん

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