見出し画像

「悟空の眼」を持つこと

日々淡々と暮らしていると「悟空の眼」を忘れているなと思う。

これは中島敦『悟浄歎異』の一節から。

我々には何の奇異も無く見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとく素晴らしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動を促す機縁だったりする。
もともと意味を有(も)った外の世界が彼の注意を惹くというよりは、むしろ、彼の方で外の世界に一つ一つ意味を与えて行くように思われる。
彼の内なる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火薬に、一々点火して行くのである。

–––––––– 中島敦『悟浄歎異』

悟空がああやって鮮烈に物事を見れるのは、まるで初めて世界を見たときのように驚く力を持ってるから。毎日生まれたての赤ん坊に戻っているようなもの。

ふつうは慣れてくると何でもレッテルを貼る。ああ、それはこういうことだよねって型に当てはめる。同じように見えて毎日ちょっとずつ変わっていることも、気づかないふりをする。

じゃないと、わたしたちはたくさんの情報を理解しきれないからだ。

理解できないもの、未知なものに触れることを人間は恐れる。わかった風を装っていないと、わからないものに囲まれて膨大な情報の中に埋もれてしまう。息ができなくなるくらいに。

「悟空の眼」を持ちたいなら、どこかで見たような景色にも、いつも会う誰かにも、赤ん坊の眼で見ることを忘れないこと。

変化は気づかないうちに少しずつやってくる。大切なものの変化を見逃したくないと思うなら、「悟空の眼」を忘れないで。

わかっているようなわかっていないようなものに囲まれた退屈とは無縁になるはず。

#読書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?