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【たとえ話】 赤色の戒め


赤い果実を思わせるような、甘く、芯のある香りがした。
月明かりに照らされた、長い黒髪が風に舞う。
生温い夜風は夏の始まりを告げるように優しく、人々の肌を撫でていく。
愛されなかった絶望も、怒りも、全てを受け入れて、彼女は微笑む。
『大丈夫』だと、まるで私を安心させるかのように。

ーー『赤色の少女』よりーー


 適当に手に取った本の、適当に開いたページの数行に目を通して、私はすぐにその本を閉じた。嫌な冷や汗が、頬から首筋、背中を伝う。
 どこか懐かしい図書室の一角。窓から差し込む光で明るい室内には、行儀良く本の詰まった書棚が並んでいる。

 私はきっと夢を見ている。
 そう思った。

 夢だとしたら、なんて悪趣味なのだろう。

 『赤色の少女』を私はよく知っている。
 これは、私が書き上げることのできなかった物語の一つだ。

 急にお腹が痛くなって、私は床に倒れ込む。咳き込むと大量の血が口からこぼれ出して、床に落ちた『赤の少女』という本に吸い込まれていく。

 すると、本を基点にして、徐々に女性の姿が浮かび上がってくる。
 誰なのかはすぐにわかった。
 赤の少女、だ。

 ああ、私は死ぬのか。そう思った。
 私の命で、彼女が生まれる。そういうことなら、仕方がない。
 ある意味、本望ではある。



 夢は、そこで途切れた。

 ジリジリと鳴り響く目覚ましを止めて、寝返りをうつ。
 目は覚めていたが、すぐ起き上がる気にはなれなかった。

 カーテンの隙間からの光で、今日は晴れだとわかる。

 最高で、最悪の夢だった。
 そして、夢は結局のところ夢でしかないのである。

 再び鳴り出した目覚ましを叩きつけるように止めて、私は布団から重たい体を持ち上げる。いつもの日常が始まる。



 あの夢から、何日が経っただろうか。

 家が焼け、炎と煙が街を包み、駆け込んだ先は行き止まり。
 私にはもう逃げ場が無いのだと悟る。

 何があったか、は結局のところよくわからないのだ。
 わかるのは、私はここで死ぬのだということ。

 痛み、苦しみ、恐怖。
 そして、酷く後悔した。

 『赤色の少女』に命を捧ぐことができなかったことを。

 書けば何か、変わったか。そんなことは誰にもわからない。
 それでも、私には私のやり方があったはずで、それを試すことすらしなかった。
 下手だから、恥ずかしいから、と。
 向き合うことから逃げてきた結果がこの惨状だ。

 怠慢だ。愚かの極みだ。

 彼女を、その物語を、愛していた。
 ずっと、ずっと、忘れたことなど一度もなかった。

 それなのに、彼女も、その物語も、私が死ねば一緒に道連れなのだ。

 書けば良かった。そうすれば、彼女だけでも生き長らえたかもしれなかったのに。

 軋むような大きな音が鳴り響く。
 それを最後に、私の意識は途切れた。





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