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【ReConstruction】 #2 ブルックナーと「未完の完」

第2回目のReCounstruction(再構成)はブルックナー。

歴史的録音を再発するドイツのクラシック音楽レーベル「Archipel」より2014年にリリースされたカラヤンのブルックナー。1962年に行われたライヴ録音で「交響曲第9番」と「テ・デウム」を収録している。


カラヤン自体ブルックナーは十八番であり良質な録音も多数残されているので、そういう意味で本盤は音質も特筆して良いわけでもなし、「珍しい録音」程度の価値しかないかもしれない。

ただ僕はやはり第9番とテ・デウムがセットで、しかもブルックナーの名手にして帝王カラヤンが残しているというのに痺れるのである。

【第1部】ブルックナーの交響曲第9番とテ・デウム

ブルックナーは好き嫌いが激しく別れるかもしれない。後期ロマン派最大のシンフォニスト=交響曲作家なわけだが、ロマン派末期になった末に調性・構成・劇性が極限まで飽和した作曲家だと思う。特徴的なのはその長大な楽曲。メロディー小品指向のクラシック愛好家には天敵かもしれない。しかし僕はブルックナーの交響曲こそキリスト教から端を発した西洋調性音楽の到達点だと考えている。

そんなブルックナーは巨大な交響曲をナンバリングしなかった習作「第0番」「第00番」含めて11曲作曲している。その最後に位置するのがこの第9番ニ短調である。

「第九のジンクス」というものがあり、ベートーヴェンを筆頭に「交響曲を9曲書くと死ぬ」というのがあるのだが、ご多分に洩れずブルックナーはこの第9番作曲途中で他界した。

そのため通常では完全に完成された第3楽章までを演奏するのが慣例となっている。楽章一つ一つが十分な長さと完成度を持っており、なおかつこの時期になると緩叙楽章(ゆっくりの楽章)で締めることも珍しくないためこのようになってしまった。

※余談だがブルックナーの弟子マーラーはベートーヴェンと同じく「第9番ニ短調」を作曲して師ブルックナーが死んだので、「第九のジンクス」を真に受けて(のかどうかははてさて)第8番のあとに番号なしの交響曲「大地の歌」を書く。で、それを書いてから第9番を書き、さらにその後第10番作曲中に他界する。

一方でテ・デウムだが、宗教曲の1ジャンルで「ミサ曲」「レクイエム」と並んでしばしばクラシック作曲家によって書かれる。ベルリオーズのテ・デウムは有名だが、それに並ぶブルックナーの代表曲である。ブルックナーはもともと敬虔なカトリックだったため宗教曲も数多く書いている。

2曲とも最晩年に書かれブルックナーの集大成とも言える楽曲である。
さてそんなブルックナーだが、第9番を書いている途中で自分に死期が近いことを悟っており、この堕9番を完成させるまで活きられないことを予感していた。そのため「終楽章が未完であれば代わりに『テ・デウム』を」と考えていたらしい。もともとこの第9番はかなり宗教的な作品で「Dem lieben Gott/最愛なる神へ」捧げた楽曲であることを献辞で示している。敬愛するベートーヴェンと同じくニ短調で、しかも合唱で締めるというのがなんとも運命めいている。

とはいえニ短調の交響曲の最後がハ長調というのは無理がある。ブルックナー死後この案が採用されることは滅多になくなったのである。

【第2部】未完の完:未完成という魅力と、完成への憧憬

クラシック音楽ほど、「未完成」という価値が強い音楽ジャンルはないのではないだろうか。バッハ「フーガの技法」然り、モーツァルトの「レクイエム」然り、シューベルト「未完成交響曲」然り。

未完成だからこそ「作曲家はこうしたかったのではないか」「本当だったらどんな音になっていたのだろう」とインスピレーションを掻き立てる。
しかし誰かがそれを完成させたらさせたで、本質的にはその作曲家の作品ではなくなる。

完成したものを追い求め、でも作曲家の真の意思を知りたい。
実に狂おしいジレンマを抱えているのがこの「未完成」なのである。

ただ実はこの第9番の未完の第4楽章は展開部のオーケストレーションまで済んでおり、ほぼほぼ出来上がっているのである。そのため近年では研究も進み、補筆完成版がいくつかリリースされている。

その中で2012年に録音された最新の「サマーレ/フィリップス/コールス/マッツーカ版(SPCM版)」でラトルが録音したものが大きな話題となった。

近年の研究では前述のテ・デウム最終楽章説を裏付けるものが出てきていたり、「第4楽章は当初テ・デウムへの経過部として書かれた」などの仮説を生んだ。ただ明確なテ・デウムとの関連性を見せるのが「基本音型の第四楽章での活用」なのである。テ・デウムの冒頭で奏でられる基本音型がフィナーレではオーケストラを支え華やかに締められる。この交響曲とテ・デウムの強い関係性が感じられる音楽だ。

然るに、一瞬でもブルックナーの構想の中で第9番の後にテ・デウムを配する構想が生まれたのであればこれはある意味「作曲家の意思」を汲み取った完成系の一つではないかと考えられる。

補筆完成はもちろん研究の末、組み上げられ可能な限りの作曲の意思を汲み取ったものだろう。しかし細部には「もしかしたら違うかもしれない」が潜んでいるのではないかと思ってしまう。

一方で第3楽章までの演奏はもちろんブルックナーが書いたものだけで組み上げられているが、この楽章で曲を終えることを作曲家は望んではいない。

「作曲家が書いたものだけ」で「曲が完成された」形、それこそが第9番+テ・デウムなのである。

【第3部】余談:Archipelレーベルとカラヤン

ブルックナーの交響曲第9番のフィナーレ論争は結論の出ないものだと思うので、つまるところそこは個々人の判断に委ねたい。しかし今回そんな問いかけを残してくれたこのアルバムを僕は大切にしたいと思う。

さてそんな歴史的録音を多数残したドイツのArchipelレーベルだが、これだけでなく素晴らしい/珍しい録音も数多くリリースしている。学生時代からカラヤンファンでいるので、本レーベルの珍カラヤン盤を紹介し本記事を締める。

幾度となく全曲演奏をしているベートーヴェンだが1958年にニューヨークフィルを振った第9というなんとも珍盤。さらに第1番、第5番《運命》もセットになったボリュームがたまらない。手兵ベルリンフィルとの慣れ親しんだベートーヴェン全集を聴いた後はこの第9も味わってもらいたい。

モーツァルトのレクイエムは有名な演奏では3回。ベルリンフィルとの1961年と1975年、ウィーンフィルとの1986年のものがありいずれも名盤としてな高い。その最初の名盤のわずか1年前の1960年のザルツブルク音楽祭ライヴ演奏。レオンタイン・プライスがソプラノを務めるというのもあり、なかなかに魅力的な盤である。

ここからはバッハを3枚。一つ目は大曲マタイ受難曲。1971〜1973年にかけて録音しているものが一般的だが、こちらは1950年にウィーン交響楽団と演奏したライヴ録音。なかなか複数回分の演奏を聴く機会のない大曲だが故に、別の演奏があるというは実に嬉しい。

ミサ曲ロ短調は1973年ベルリンフィルとの録音が代表作だが1950年録音のウィーンフィルとのライヴ演奏もなかなか渋い。
エリーザベト・シュヴァルツコップがソプラノで参加しており布陣が何気に豪華。
ちなみにこのレーベルはボーナストラックが豪華なのも惹かれるポイントである。
この盤ではにはモーツァルトの交響曲第40番がしれっと収録されている。

最近リリースされた1961年ベルリンフィルとのザルツブルグでのライヴ録音。こちらもボートラにベートーヴェンの交響曲第8番が収録され良いボリューム感である。

このほかフルトヴェングラーやクレンペラーなどの大家の珍しいライヴ録音がいくつかリリースされているので、なかなか注目甲斐があるレーベルである。

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