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湧別のりんご おぼえがき その2

大正時代。調べることは、いと楽し

明治43年、湧別村より上湧別村 分村.。
大正時代へ突入~
ちょいと調べてみたよ。大正時代何があったのか

 夕張炭鉱爆発事故
 バルカン戦争
 桜島噴火
 東京駅開業
 パナマ運河開通
 サラエボ事件~からの第一次世界大戦
 ボーイング社創業
 ロシア革命
 日立製作所設立
 アインシュタイン来日
 関東大震災
 十勝岳大噴火

……なんかがあった。りんごとはおおよそ関係ない?んだけど、時代といいますか、政治 経済 外国で何があったのか知ることで、ちょっと想像してみたり、深く調べてみるのも楽しいのではないかと思って列記してみました。

さて、湧別のりんご関係の話に戻ります。(この当時は、上湧別村です)

大正元年もりんごの苗木が配布されています。品種は

青龍、紅絞(べにしぼり)、甘露(俗称カキリンゴ)、
紅魁(べにさきがけ) など。

また、当時植えられていた品種はほかに

黄金丸(こがねまる)、黄魁(きさきがけ)、生娘、花嫁、
倭錦(やまとにしき)、宝玉、白龍 など


なんと雅な品種名♡

ここで脱線 ご容赦を
湧別にあったという記録はありませんが、国内で古くから栽培されていたというりんごの品種に、こんな名前もありました

 緋の衣(ひのころも)、御料紅斜子(ごりょうべにななこ)、君が袖、
 翆玉(すいぎょく)、蜀光錦(しょくこうにしき)、初日の出、
 歴山王

いまインターネットで調べても、読み方がわからない名前もあります。
そのまま読んでもいいのか? と思いつつもあえて省略しました。
資料には 歴山王(アレキサンダー 起源はソ連)とありましたが、
情報不足のため今は表記のみにします。

上湧別小唄にもりんごの名前🍎

更に脱線 笑ってね🎵
昭和10年ごろ、地方の小唄、音頭ブームがありまして、
上湧別でもつくられました。
全5章のうちの第4章に、りんごの名がありました

来たか初秋(はつあき) 林檎の枝に
熟(う)れて花嫁 紅(べに)さす頃は
乙女心の 実も熟れる
ア~ 乙女心の 実も熟れる

上湧別小唄 4章より

はいっ! 前述した「花嫁」です

鉄道開通に伴い、販路拡大

話はとーとつにもどります。
大正5年 湧別軽便鉄道(湧別~野付牛間)が開通すると、
 北見、帯広、釧路方面に
大正10年 国鉄名寄本線の開通で、
 紋別、名寄、浜頓別、旭川まで
 販路が広がりました。
また、大正10年から「湧別名産りんご」のレッテルが使用され、その名が周知されるようになったようです。

そして、りんごの栽培技術の工夫や改良、増える病害虫対策などのため、農会は研究員を配置。果樹農家も組合をつくり、防除や視察研修など、たゆまぬ努力をしていました。

 大正11年4月 
  村のとある地区にて果樹組合結成。村初の噴霧器共同購入。
 同年8月 りんご栽培の実施視察と研修(袋かけ、貯蔵法)
  この頃、ふらん病発生。
 大正13年~14年 ブランコ毛虫という害虫が発生。

大正7年 全村の作付反別は20町5反歩という記録があります。おおおそ20haちょいくらいかな?
ただ、
大正8年に上湧別村より遠軽が分村しており、遠軽にもりんご畑があったらしいので、実質いまの上湧別地区はどれくらいだったのかはわかりません。

昭和初期~あれこれ

昭和4年 上湧別りんご研究同志会 結成される
昭和6年~9年 村のとある果樹農家さん、許可され、渚滑、中湧別、
 遠軽、生田原、留辺蘂、北見、陸別、本別の各駅でりんご販売。
 湧別りんごの名声をあげる。
昭和7年 上湧別りんご協会 発足 (会員100名)
昭和8年 道庁の果樹栽培指導地に指定される。


年表を書いているだけでは意欲が失せそうなので、ここでひと休止。
おぼえがき その3 へ続きます






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