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美味すぎる料理、お断りします。

先日、ふと旅がしたいと思い
後輩と一緒に熊本の先輩に会いに行った。
久々に顔を合わせて話したいだけだったので、
合流してすぐ、ご飯を食べに行く流れになった。

Google mapでオススメの店検索したのだが、
予約制だったらしく、
別のご飯屋さんを紹介して頂き
そこに向かうことにした。【徒歩1分】

大通りに面したその店は、
ロスのレドンドビーチを彷彿させ、
腹を空かせた男どもを誘うように
ネオンが爛々と輝いていた。

店の名前は【ガルグレイ】
ピザやパスタをメインとしたイタリアンbar
あとでリンク貼るので気になった人は行ってほしい。

店に入って目に飛び込んできたのは、
10人以上は広々と使える巨大な円卓。
その少し雑多な趣は、
モンスターハンターの酒場に
迷い込んでしまった感覚である。

直前に電話で予約したので、
他のお客さんと一緒の円卓に通される。
奥の方に厨房が見え店全体の雰囲気も楽しめるいい席だ。

オープンな席はあるが、
周りの雰囲気も相まって気にせずに話せるというのもポイントが高い。

料理もお酒も楽しめて、
一緒にタバコも吸えるところは最高としか言いようがない。

何よりも料理が美味すぎる。

海老の暴力。殻ってめちゃくちゃ旨味詰まってる。

むしろ美味すぎて怖くなってくる。
口に入れた瞬間から旨味の釘バットで
後頭部をぶん殴られているようだ。


これだけの料理をペロッと平らげ
確かな満足感に酔いしれるが、
美味い!の他にになにかモヤっとした感覚がそこにはあった。

なぜかクタクタに疲れているのだ。

これは嗜好が成熟したことや
油物がキツくなっているという
年齢的なものもあるのだろうが、

美味さが速すぎるのである。

いわゆる【これ絶対美味いやつ】にあきあきしている状態だ。
食べる量に対して入っている旨味の量が大きすぎて、
自分が許容できる量以上の美味しいが溢れ出しているのだ。


自分自身こんな感情になるとは思いもしなかったが、
もう、美味すぎる物は量を食べられなくなって来ているのだ。

最近は、あまーいチョコレートより、
塩豆大福の様なゆっくりと美味さがやってくるものを好む様になって来ている。

ズバンとくる美味さはないが、
『うーん、なんかわかんないけど
美味いから食べちゃう』
という潮の満ち引きの様に寄せては返す旨味に心を任せたいのだ。

昔、おばあちゃんの家にいったときに置いてあったお菓子。
『雪の宿』
『純露』
『南部せんべい』
なんでこんなしけたお菓子しか置いてないんだ。
もっとポッキーとかポテチとかガツンとくるものが欲しい!!
と思っていた。

今はそのガツンとした物にくらってしまう。

パラメータが高すぎる故、拒否感が生まれたり
秀でることが全て正解なんて事もないのかも知れない。
勿論、劣っていることがプラスに働く事もある。

ポルシェやランボルギーニが
今の自分のライフスタイルには
オーバースペックである様に、
きっと料理にもオーバースペックな物は
あるのだと気づいた。

もちろん美味しい料理を食べたくない訳ではないが、
そんなに頻繁に食べなくていいのだ。

きっと、僕の日常は
たまに美味しい料理を食べて、

少し冷めたご飯に生卵をぶっかけて食べるくらいの生活で満足できている。

この美味さに真正面からぶつかって行ける様になった時が、
真の意味で生活レベルが上がったという事なのかもしれない。

人間の欲望は他人の模倣である。
という言葉もある。
それを欲しいを思う欲求自体が
他人依存になってしまっている時もあるという事だ。

行列の出来る店に並びたくなる心理や
Amazonレビューを気にしてしまう心理みたいな物だろうか

自分の心の動きを睨む様に観察し、

本当の喜んでいるものと
そうでないものを取捨選択していくことで、

自分元来の欲求と向き合えるのだろう。

それがきっと私だけの価値観になるんだろう。

常識の物差しと、もう一本
自分のだけの物差しも用意しよう。

それをあべこべにしないことも
この多様化した時代では
気をつけるべきことなのかもしれない。

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