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僕にとっての二楽章。『蜜蜂と遠雷』恩田陸を再読

2回目。映画化もされて、特集するアルバムもリリースされていた。アルバムのほうはさまざまなアーティストのピアノの抜粋だった。映画のサウンドトラックでも、河村尚子さんをはじめに錚々たるピアニストだ。

楽曲を楽しみながら読む。前回は、勝手にトラックを作っていた。

やはり2回目になると物語の構造が最初より見えてくるような気がする。

最初にあまり共感ができなかった明石の存在(最初はいいのだけど、下巻になってからの立ち位置)が、今回は逆にくっきりと浮かび上がってくる。最終版の明石の思わぬ行動には、とても心が揺さぶられる思いだった。

思えば、最初はまだまだ読みが浅かった。ある意味、鮮やかともいえるマサルと亜夜の音楽にばかり惹かれていたような気がする。実際、繰り返し聞いたのは、ブラームスのピアノソナタであり、プロコフィエフの交響曲第3番だった。天才といわれながらも突然舞台を去った少女の復活と、彼女と運命的な再会を果たしたマサルの交流譚はとても読みやすく、美しいストーリーだった。

だけど、今回、繰り返し聞いたのは「イスラメイ」であり、「あなたが欲しい」であり、そして、バルトーク。特にピアノ協奏曲の二楽章だった。モーツァルトのピアノソナタも、映画でピアノを担当した藤田真央さんの純度の高い響きに心を奪われた。

彼が『ギフト』なのか『災厄』なのか。審査員の三枝子たちは巨匠・ホフマンが残した言葉にずっと悩まされる。序盤では、彼、風間塵の内面の描写は少ない。一方で、塵の存在こそがキーではあった。それは最初もわかっていたが、よりくっきりとしてきた。

解説は担当編集者の志儀さんが書かれているが、ここで驚いたのは、著者の恩田さん自身、塵をどこで落とすか、を考えていたということだった。規格外の才能を描いたとき、生み出した本人すら、その存在をどう扱うかに迷ったーという意味だろうか。彼を認めること、認めないこと。それをどういう意味にするか。著者自身も作家の立場として、世界を構築する人間として、迷っていたのだろう。

でも、どこ吹く風として、塵はふわふわとピアノに向き合っているように見える。

それが一変する、三次予選の描写には震えた。それは、調律を担当した浅野もそうだろう。

「ホフマン先生に聞こえるようにしてください」

初読のときは見えていなかった言葉が、深く胸に刺さった。
そして、物足りなさを覚えていた本選の描写の少なさ。前回は、ここをとても楽しみにしていた。でも、ここまでで、私たちは、登場人物をとても深く知った。彼らは、すべての予選を通じて、音楽を大きく完成させて、彼らの成長はひとまず、この本選までで終わっていた。

読者が、そして審査員がするのは、その成長をきっちりと見届ける。それが本選の役割だった。

長大な協奏曲のわりには描写があっさりとしている、という不満は、幼く恐れ多い。

すばらしい物語だった。三度、読む日が楽しみだ。そして、作家という仕事のすばらしさと厳しさを感じさせてくれた。これだけの物語を、本当に血の滲むような日々で、必死に原稿に向かい合ってきた。それを垣間見せてくれた解説を読めてよかった。

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