『フリクリ オルタナ』ー失われた日常を求めてー
『フリクリ オルタナ』は『フリクリ プログレ』と二部作で制作された映画だ。『フリクリ オルタナ』は17歳の女子高生4人組を中心とした群像劇である。『プレグレ プログレ』は男女のボーイミーツガールが世界を救うという80年代的な想像力、つまり「私ってカワイイ系」の女子が男子に救済される(逆に言うとオタク男子が女性を救済したいというレイプファンタジー)という退屈なものだった。前作の『フリクリ』とは繋がりがほぼ無い。共通点としてはハルコと郊外にある強大な「何か」ということだ。ハルコと郊外にある巨大な「何か」は、外部の存在であり、物語の世界に干渉することで物語を駆動させる。ハルコは外部の世界そのものであり救済者、巨大な「何か」は物語の世界を破壊させる装置だ。それは現実に置き換えると外部の存在ハルコ(外部の世界に可能性があるという希望)と巨大な「何か」はグーロバル化と新自由主義である。
ではなぜ『フリクリ オルタナ』を選んだか。映画の中で主人公の日常を続けたいという欲望は現在の若者モード(仲間がいれば最高でしょという気分)とマッチしており、それが現在では難しいことだと考えたからだ。
それを解くにはなぜそのモードが生まれたかを解いていき、映画のテーマと現実がマッチしていくかを問う。
バブル崩壊以降、失われた20年という経済不況の始まり、阪神・淡路大震災という経済的な敗北と震災が発生した。そして共同体の終わりを告げるオウム真理教による地下鉄へのテロ攻撃、酒鬼薔薇聖斗による幼児殺傷事件、和歌山毒入りカレー事件により、わたしたち帰るべき共同体が失われたのが象徴的に連続した。
そんな中で「まったり生きる」ギャル的な思考が90年代の「終わりなき日常」を生きるためのカウンターだと社会学者の宮台真司は述べた。映画で語られる「当たり前の日常を過ごして行く」は終わりなき日常という90年代のムードをモラトリアムの継続を求める。しかし、世界は残酷だ。2001年の同時多発テロ以来が起こりイラク戦争、その後のテロの時代が到来。日本は東日本大地震以降、男性が作ってきた社会が壊れて行くの見せつけて、そしてアメリカのトランプ大統領の誕生によってアメリカンファースト主義が台頭していき、トランプ以降の世界は自国第一主義が蔓延し、経済戦争、そして世界的な戦争が起こってもおかしくない状況だ。
そんな世界の私たちの「普通の日常」はいつ終わりを迎えておかしくない。極端な話だが明日、世界が終わってもおかしくない。
だから「今」を生きることがどれほど尊いと考える。先行き不透明な世界で「今」この瞬間が大切であり、そこにいる仲間との絆(コミュニケーション)こそが最高であり大切であると。
主人公は17歳だ。青春がいつまでも続くか分からない。未来が見えない。だからこそ「今を生きる」ことが祝祭であり、奇跡であるとして、それはある意味で悲しく刹那的に生きることである
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