『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は青春を終わらせる

『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は青春の終わらせ方を描いたアニメ作品だ。
 文芸部の女子高生の5人の部員たちは純潔の名のもとに文学に傾倒していた。しかし、ある日「死ぬまでにしたいことは何」という質問に「SEXがしたい」と答えた一人の言動により彼女たちは性に翻弄されていく。
 たしかに男性よりも女性の方がSEXに対する身体的、精神的な負担は多きい。
 しかし、SEXを巡る女子高生たちの物語ではない。
 SEXとは変わる究極の象徴であり(女子高生たちの彼女たちにとっては)今ではない自分に変身する行為である。それによって大人になり青春を終わらせるメタファーだ。原作、脚本を担当している岡田麿里は青春を描いてきた作家だ。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』や『心が叫びたがってるんだ』の青春を重きを置いた作品において繊細な十代の心理描写を描いてきた。しかし、なぜ岡田麿里は青春を終わらせたのだろうか。
 過去の青春を重きに置いた二作品は岡田麿里の出身地の閉塞的な秩父を舞台に青春を関係に閉ざされた形で描いてきた。つまり関係が変わるが自分自身はどう変わるべきかを消化不良にしてきた。自分自身が変わるということは自分で未来を掴み取るということだ。こう書けば自己啓発系の話になるが、しかし閉ざされた環境、関係から本当に自由になるという事は自分で選択し抜け出すことだ。
 そうなると『荒ぶる季節の乙女どもよ。』のSEXの意味も変わってくる。先程も述べたがSEXとは変わることのメタファーである。文芸部の5人は変わることを恐れているのだ。だからSEXという言葉に動揺したのだ。スクールカーストの底辺にいる彼女たちは今のままで良いとどこかで思っていた。それは未来を放棄する行為だ。それが「SEXがしたい」発言によって自分自身の身体がSEXによって変わることを物理的に突きつけられたのだ。そして物語は駆動する。
 未来は現在を変えることで初めて可能性として出現する。だから、こそ今よりも他の可能性があるという希望、未来があるという希望を抱けるのだ。
 最終話で少しづつだが変わっていく5人の部員たちのモノローグの映像で終わる。
 青春とは今ここの関係に苦悩することだ。だからこそ岡田麿里は今ここではない場所にキャラクターたちを連れて行き青春を終わらせたのだ。
 未来は現在とは良いものになるか分からない。しかし、今ここを抜け出せば可能性はある。そこで未来を掴むのは遅くはない。だからこそ乙女どもは荒ぶるのだ。
 

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