『ヒミズ』ー絶望の果てに少年は何を夢見るのかー

 園子温監督作品である『ヒミズ』は、近年の作品である『愛のむきだし』、『冷たい熱帯魚』とは異なる作品である。
 『愛のむきだし』、『冷たい熱帯魚』はエディプスコンプレックスに支配され、神=父の象徴であり、父に支配された人生から開放、または破滅していく物語であり、エディプスコンプレックスに支配された中での新興宗教に吸収されていく家族、崩れた家族を描いており戦後のパターナリズム批判と70年代という日本の黄金時代を「普通」とする家族システムが現代では機能不全に陥ってるのだが気づかないふりをしている家族を描いている。
 しかし『ヒミズ』ではエディプスコンプレックスは存在せず父親の憎悪をむき出しに住田と父親は殴り合い、「普通」である家族システムは崩壊している様子が冒頭から描かれている。
 それは2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響だと考えられる。『ヒミズ』は東日本大震災後に脚本が大きく変更されている。つまり神=父よりも巨大な暴力である神=自然という人間には回避不能であり、変更な不能な暴力が現実として目の前に現れたのだ。そのため、父親からのエディプスコンプレックスではなく自然という巨大な暴力が存在することを証明した。そのため今作ではエディプスコンプレックスは強く描かれない。
 そして70年代的な黄金時代の家族システムというベタな「普通」を演技的に振るまうことを描かれていないことも東日本大震災以降、今までのシステムが機能しないことが可視化されたことへのメタファーだと考えられる。
 なぜ、園子温監督はそこまで東日本大震災を意識したのだろうか、それは映画とは虚構ではなく現実への地続きであるという考えがあるのではないのか。『愛のむきだし』、『冷たい熱帯魚』も事実をベースに作られている。つまり園子温監督にとって映画とは虚構ではなく現実を映し出す鏡としてあるのではないのかと思われる(彼の作品では宗教が憎悪の対象として描かれる、宗教は現実から逃避であり現実を虚構としてすり替え現実から距離を開ける。)
 『ヒミズ』 は東日本大震災後の日本として描かれる。それは『ヒミズ』という作品は虚構ではあるが現実と地続きの世界で生きる人間を描いたと宣言し、今を生きる私たちの物語だと言える。

 15歳の住田は「普通」に生きることが希望だと言う。彼のいう「普通」とは貸しボート屋で嬉しくもないが悲しくもない人生を生きるといことだ。それが彼自身を苦しめていく崩壊後の家族、父親を殺害した住田は残りの人生をおまけとして街の「悪人退治」に費やそうとする。
 住田には茶沢という住田に惚れ込んだ女の子がいるが住田は彼女の親和的承認を拒否をする。住田が求めていたのは社会的承認である。「普通」であることが希望だがまだ15歳、社会的承認を受けることで大人になりたともがいているように私には映った。
 住田の社会的承認を受けたいという態度は今を生きる若い人の叫びのようにしてならない。統計では社会の役立ちという若者が過去最高になっている。それを裏返せば社会的承認を受けたいという裏返しではないのか。東日本大震災以降、今までの「普通」、「幸せ」ベタに振舞っていたことがすでに崩壊していることが可視化された。
 それは社会での「普通」、「幸せ」を計る物差しが存在しないことでもある。そんなベタな振る舞いが通用しなくなったことを描いたのが『ヒズミ』だ。
その中で物語のラストで父親を殺害したことを警察に自主することを茶沢にさとされ、茶沢とのささやかな幸せを夢想する。そして川沿いを走りながら「がんばれ」と連呼しながら映画は終わる。
 社会が大きく揺らいでいる中で方法論的個人主義で個人が社会を変えていく、自分の「普通」、「幸せ」は自分自身で作り上げていくということに映画は希望を見出した。
「がんばれ」少年は絶望の果てに未来を夢見ることで絶望を乗り越える。 

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