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制作日記-観想をもつき抜ける

現代は、真理も正義もないがしろにする「ポスト・トゥルース(post-truth)」の時代だとされます、客観的な事実より、適当な嘘であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持ち事実を軽視する社会。観想なき社会といってもいいのではと思います。少数意見や専門家の研究を吟味して、真理や正義に向かって一歩ずつ深めていくのが面倒だと見切った上で、都合のいい情報を抜き取り、分りやすい持論を大声で発するほうが市民権をえていくような場面が多くみられます。真理や正義の大切さが分かっているからこそ、これらの状況に対して警鐘が鳴らされているわけです。


観相とはなにか

観想(テオーリア)【(ギリシャ)theōria】
例えば、アリストテレスは、観想(テオーリア)《眺めることの意》を哲学で、永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識活動。と位置づけています。 アリストテレスは、これを実践(プラクシス)や制作(ポイエーシス)から区別し、人間の最高の活動としました。「私たちは何かを学ぶために(つくるために)、それについて考える必要がある」と述べています。学びとは、知識や理解を得ることであり、それは観察からえられるものとされています。

また、仏教の哲学においても、観想は重要な役割を果たしています。現在ではマインドフルネス捉えてもよいのではと思います。その教えでは、自己の苦しみや迷いを理解することが大切であり、観想はその手段の1つとされています。観想を通して、自分自身を深く理解し、内面の平穏や解放を得ることができるとされています。

ほかにも、スピノザは、「精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する(contemplatur)時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。」と残していて、人の最高の喜びにつながるものとして捉えられていて、求める姿勢こその重要性なのかもしれません。

他にも哲学や宗教において観想は脈々と考えつくされてきています。人類の探求の対象として、自己理解や真理や正義の探求に役立つことがわかります。観想を通して、自己の内面に目を向け、自己のあり方や人間の本質を探求することによって、真理や正義に到達しようとしてきました。簡単に言えば、自分の頭でしっかりと捉え、感じることによって、社会が成り立っているのだということが、大切なのですね。

アートにとっての観想とは


現在が、真理も正義もないがしろにする「ポスト・トゥルース(post-truth)」の時代だとすると、アート本来の価値よりも、個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つことが想像されます。アートの潮流などではなく、生きてきている中で触れている、エンタメやファッションやアニメなどをベースにしたものが主流になっている現実も理解することができます。しかし、少数派や専門家の研究も大切なのだということも同時に認識することができます。

アリストテレスは、観想(テオーリア)、実践(プラクシス)、制作(ポイエーシス)と区別していました、想いがあり、それに向けて生きる決意があり、アウトプットをおこなう。と考えると、観想(テオーリア)がしっかりしていなければ、価値を生み出すことは難しいようにみえます。アートにとっての観相は、作品を深く理解し、感じることを意味し、作品を表面的にさぞるだけでなく、それに意味や感情を読み取ることが必要になります。つくる側は、自分の感性に対して省察することが大切ですし、みる側も、自分の感性のどこに響いているのかを主観的みることが重要です。

スピノザは、精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する(contemplatur)時に喜びを感ずる。といいました。アートが持つ美しさや感情は、個人の主観によって異なります、誰かの感性を理解することではなく、同じ作品でも人々が持つ感情や理解は異なります。このように、観想は個人によって異なる主観的な経験であり、芸術作品に対する深い理解や感情から喜びを得るためには、自分自身の主観に敏感であることが必要です。

その上で、アートが観想を超越する可能性について考えるとき、そのアートが制作者や鑑賞者の感性を超え、深い感動や感情を引き起こすことができるのか?ということを意味します。これは、アートが何か特別なものを伝えることができる場合に起こります。アートこのような影響を与えることができる理由を考えてみたいと思います。

アートが観想を突き抜けるとしたら


意味性の探求。
作品には、時に、言葉で表現することが困難な感情や思考を込めることができます、自明性を創造するのではなく、未知を発見するでもなく、意味は作品の解答ではなく、観想を手助けするもので、それ自体を超えてゆける可能性があります。

表現の探求。作品には、アーティストの技術的に特化したスキルによって表現がささえられています。その人にしかない身体性と表現が結びつき、観想を超えた無意識の領域に触れるときに歓喜が生み出される可能性があります。

時代や文化の探求。作品は、時代や文化背景を反映にして役割を果たします。そのような作品は、アーティストの存在自体がアートに直結し、作品と制作者の両方から観想することで、私から私たちそして、もっと大きな器としての意識にたどり着ける可能性があります。

また、アートを通して、観想を超越するためには、制作者や鑑賞者自身がマインドフルネスであることが必要です。芸術作品に対して自分自身を開放し、感性的に接することができることによって、本当の価値をみいだすことができるのです。

つまり、アートが観想を超越する可能性があるとはいえ、それはすべての人にとって普遍的なものではありません。少数派や専門家に限定されてくることなのかもしれません。ただ、アートにこのような側面があることをお伝えすることで魅力的に感じていただけるのであれば幸せです。


では、また



© 2023 Yuki KATANO

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