何を感じ、何を遺すか
第31週 11月3日〜11月9日 の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、「人間の業」について考えてみましょう。
仏教的にはカルマと呼ばれる業。善心による善業、悪心による悪業、善悪いずれでもない無記業の三業に分けられるそうです。
とても気になるのは「無記」と呼ばれるもの…。
それらは「遺物」となりうるものなのか?
では、今週もいってみましょう!
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心の深みからの光が
眩しきものとなり輝きだす
それは生きる力(生命力)になり
あいまいな感覚をも照らし出す
それにより興味にかられ
表現の源となり
人間の遺物を残すように促す
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心の中の光とは?
逆説的に考えると、すべての行動の源であり、そのベースには思考→感情→意志といったプロセスがあります。そして、大いなるものからもたらされた認識から始まるという起点が「光」という象徴的なものとして表現されています。照らす光と照らし出されたもの(物質的、非物質的なものすべて)をとらえることなのです。
秋が深まり、日が短くなるにつれ、外界の光から内界の光への感受性を高めてゆきなさいというメッセージなのでしょう。
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あいまいな感覚
あいまいさ、あわい、中庸、無記たるものを観察すべしという難しいお題がでてまいりました。快、不快の中間といえば、普通の状態ですよね?普通を表現するのは、あたりまえすぎて難しいものではないでしょうか?
つい白黒ハッキリさせたくなるところを、グレーの階調をしっかりととらえてゆく感覚といっても良いかもしれません。
モノクロ写真を現像する際に、同じネガフィルムからどんな像を焼き付けてゆくかが写真表現の重要な部分です。デジタルになってもそのプロセスに変わりはありません。グレーのグラデーションをとおして、伝えたい世界が現れてくるのです。
「対話」をするときにも、賛成か反対かではなく、賛成派と反対派がともに生きてゆける状態を目指すという認識が、時代とともに色濃くなってきていると感じます。優柔不断で何も解決できないじゃないか!と憤る人もいますが、お互いが生き残るために必要な行動が何なのか?を問うことは、諦めずに「対話」を続けることしか方法はないのです。
あいまいな感覚の認識力が、生きる源になるのだよ!という
2つ目のメッセージです。
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そして3つ目のメッセージ。「人間の遺物を残すよう」
Menschenwerkeを直訳すれば、「人間の業」となります。翻訳者によって、「仕事」だったり「事業」と訳されてきました。アーティスト視点でとらえれば「作品」というコトバでもよいかもしれません。
ピンときたのは、内村鑑三「後世への最大遺物」という文章のことでした。とても興味深いので是非みなさまも読んでほしいのですが、
というところから一転。まず後生には、「お金」を遺すべし!という以外な話から始まります。一瞬エッ?と思うのですが、
鑑三さんも金儲けは難しかったんだーと
いまから「お金を残す」なんてムリムリと安心するのですが、じゃあ何を遺せるのか?何を遺したいのか?
ひとりよがりな自己顕示欲ではなく、清い想いとして話が続いてゆくのです。
青空文庫でも読めます、短文ですのでオススメいたします。
さて、みなさまは何を後世に残してゆきたいでしょうか?
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ツワブキの花を観ると、山尾三省(詩人)を思い出してしまいます。
シュタイナー思想とのつながりも多く感じられます。
(というか、完全にシンクロしていますねー。)
私にとっての宝物ををたくさん残してくれました…。
三省さんの生活の脇にあったであろう「ツワブキ」
観たり、食べたり…
葉っぱを細工し、器にして沢の水を飲んでみたり…と
遺物はいったい何を伝えようとしているのか?
大いなるものから与えられたものを「人間の業」としてとらえ、
心で想うこと、言葉で云うこと、実際に行動すること
あいまいで言語化しづらいことに焦点をあて、遺してゆこうとする意気込みこそが、表現の原点かもしれませんね。
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何を感じ、何を思考し、何を表現し、何を残してゆくのか?
そのヒントは、あいまいさ、あわい、中庸、無記たるものに
潜んでいる。
それを、観れる力、読み解く力が与えられているのです!
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シュタイナーさん
ありがとう
では、また
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