見出し画像

表現の自由が与えられていることを喜べる人が到達できる楽園

アートに規定演技はありません。

塗り絵をキレイ塗って「うまく描けてますね!」と褒められることがあります。規定された中での評価ですから、塗り残しがない、丁寧に塗れた、配色が考えられている等いくらでも賞賛されて満足することができます。

これだけでも充分に自己表現ができて満足できる人もいるかもしれませんが、本気で絵を描きたい人が果たしてそれでいいのでしょうか?

成長を追求するほど、規定の課題をクリアすることから、プラスアルファの魅力的な表現とは何なのだろうか?という問いに置きかえていかないと、表現する意味が日に日に薄れて、「うまく描けているじゃないですか!」という言葉がだんだんと虚しくなってゆきます。

そして、魅力的な表現が「自分の」という枕詞がついて初めて評価の対象になり、自分自身を成長させるトリガーになるのだ!ということに気づき、追い求めるうちに喜びに充ちた世界に到達できるのです。


◇◇◇


記憶に残る演技がしたい


スポーツ番組をみていて「記憶に残る演技がしたい。」といっている若きアイドルのようなフィギュアスケートの選手をみたことがあります。

インタビューを受けている時点で、尋常ではない練習を重ねてきたことは明白です。ルールによって定められた基準をクリアする技の精度を上げ、定められたとおりの美しさを表現するために身体を鍛えてきたことがうかがえます。

基準によって定められた点数をなるべく多く獲得し、ひとつでも上の順位を狙い、最高到達点の金メダルを目指すことに疑いがありません。

「メダルを獲ります!」ではなく、
「記憶に残る演技がしたい。」とはどういうことなのでしょうか?

フィギアの世界では、自由演技のクオリティーが問われる時代になったようです。規定演技を超えて、プラスアルファーが無ければ通用しないというハードルができ、ハードルはその人でしか表現できないもの。身体から溢れ出て人に突きささる表現力が求められる。レベルが高くなればなるほど、そういうものが求められるのかもしれません。

また、メダルはとれなくても、記憶に残る演技で審査員ではなく、ファンを歓喜にみちびいた者の方が、世間的な評価が高いといったような受け止められ方が一般化してきているのも見受けられ、本物の価値がどこにあるのが考えさせられます。

自由演技になったとき、過去から積み上げられ、誰かに決められたルールやものさしで測れるものではなく、自分で到達点をイメージできるかどうかが決め手になります。自らの美意識をもち、自分の身体に眠っている本質を呼び覚まして表現する必要がでてくるのです。

どうしたら到達できるのか目標を設定し、その目標を達成してゆく一連のプロセスに責任を持たなければなりません。練習のメニューの中に、本来のフィギア意外の美意識を学ぶことであったり、マインドフルネスであったり、もっと自分に合ったメニューを設定することが、きわめて重要になってきているようです。

◇◇◇

目指すは、頭の中で響いている音


近い例で、演奏家の話もあります。なにか演奏を習熟してゆくなかで、楽譜を読み、そのまま演奏することが音楽の目的ではありません。

その演奏家の心のなかで、タッチだったり、余韻だったり、間だったり、さまざまな要素が空間に対してどのように響き、人間に対してどう作用しているのかを聴く感性が最も重要なのだといわれています。

美しい音が聴こえてなければ、演奏家としての評価は定まらないですし、だれか、ほかの人がすでに表現している似たような音であれば価値が認められないですし、大変厳しい世界のようです。

「自分が奏でるよりも、ずっといい音が頭の中で響いている、、、」

このような状態は、演奏家の正常な姿だそうです。

いつも実力以上の理想を感じ、それを表現したいという目的があるがゆえ、感性を磨き、技術をきわめ、できるまで続けてゆく。想像を超えたものを生み出すために必要なことなのです。

アートの世界でもまったく一緒ではないでしょうか?
目指すは、頭やカラダで感じている、
美しきビジョンをアウトプットし表現することではないでしょうか?


◇◇◇

自由を喜べる日は来る



若き表現者で、表現の自由が与えられていることを嫌う人をみたことがあります。私からみると、センスもよく表現力もある人で、決められた課題ではよい作品をつくるのですが、アートという自由課題になった途端に動けなくなってしまうという悩みをもっていました。

自分が何を描いたらよいのか?を決められないといいます。

そんな時には、無理をせず、ある程度決められた課題を、ひたすらに限界までやってみることをオススメします。

どんなに規定演技が上手にできても、何か違和感がある。という状態が自由課題へと進むステップなのです。その違和感がでてくるまでは、ただひたすらに規定や価値が定まったものをつくり続ければよいのです。

でも、ある日

フィギアのジャンプでたとえれば、
あの人のように飛びたいけど何かが違う?
演奏でも、
あの人のように弾いているはずなのに、何故かそうならない?

といったふうに

決められたように描いているのに、なんか違う気がする?

という日がくるはずです。

そのときに、自分自身を
こーすればこーなる、あーすればあーなると
操り人形を動かしているかのごとくに分析し、
あーでもない、こーでもないともがくことで

他の人ができない、自分にしかできない
「らしさ」に気づける瞬間が、きっときますよ!

自他を表面的にみえていない部分まで深く観察することで、自分にしかできない表現に気づける瞬間がくるはずなのです。

そして、それは元々自分に与えられているものだったんだなぁ。
ということに気づけたとき

到達できた場所をみまわしてみてください。

きっと、、、こうだろうなぁ、、、と

想像してみることが大切なんです。


◇◇◇

自由なもの同士の関係


自由なもの同士は、相手を蹴落として自分だけが、、、
なんてことはありません。

つねに相手をリスペクトして、すごいねー、決してマネできないよ!
けど、自分も自分らしく表現してゆくぜ!という関係になっていきます。
相手を認め、対話できる関係性です。

でも、実は、陰で、

自分にもできるかもしれないと思って、隠れトレーニングでこっそりマネしてみるんですよ。それで、決して越えられない絶望感を味わい、ポンコツっぷりに生きる価値無しと受験に失敗した学生のごとく落ち込むわけなのです。でも、自分ちゃんを、50点でも何かを学べたねーと、子供をあやすように優しく包み込んであげることも必要なのです。

今日もそんな挑戦の繰り返しなのですが
リスペクトすることで、すーっと美しさが入ってきますし
そんなことをしていられる
幸せを感じています。

では



ずっと美しい音がきこえている
I hear a much more beautiful sound in my head.
© 2023 Yuki KATANO


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?