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全体の細部に宿る自分

第35週 12月1日〜12月7日 の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、「自ら」を「細部」として定義して
外界の中でどう作用してゆくのか?という問いかけがあります。
「神は細部に宿る」というコトバに紐付けて読み解いてゆきます。

では、いってみましょう。

I‘. FÜNFUNDDREISSIGSTE WOCHE (1. DEC. – 7. DEC. [1912])

35.
Kann ich das Sein erkennen
Dass es sich wiederfindet
Im Seelen Schaffens Drange?
Ich fühle, dass mir Macht verliehn‘
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
Als Glied bescheiden einzuleben.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912


  心のままに表現する中に
  再び自分自身が存在しているという
  実感がわいてきますか?

  与えられている力を感じている
  個から全体へと向かう
  全体の分岐として質朴に安らいでいる



神は細部に宿る

作品を制作する過程で、作品の全体と細部の関係をよく観察しながら進める必要があります。一般的に、隅々の細かい部分にまでまで手を入れることで完成度が高まると、誤解されている方も多いのではないでしょうか?

実際には、全体像をおろそかにして、ポイントとなる細部があいまいで表面的なものになってしまい、作品全体の完成度も落ちてしまうという事態を避けるべき格言として認識した方がよいのです。全体があっての細部、細部あっての全体であると理解し、それぞれを意識しながら進めないと、作品全体のバランスがチグハグなってしまうのですね。

気になる部分と全体の関係を把握して、こだわりを持ってつくり込むところと、逆に意識して手を抜くところつくることで、作品の主体がより明確になり、クオリティーが上がってゆくと考えられています。

たとえば、デッサンを進める際もまず、全体感をつかむことから始めます。座っている人物をデッサンするとき、始めに顔、次に体、そして椅子などといったように順々に描いていくのでは良くありません。目のピントをぼかしてぼーっとモチーフを眺め、一度、ザーっと全体を描くことから始めます。動きを追いかけたり、量感を把握したり、光の階調を感じたりすることから描き出すのです。

そしてその全体感の把握から本質かもしれない細部を発見し、表現に展開して描き込んでゆきます。描き込むことで全体感に違和感がでてくるようであれば、また全体の調整をする。といった具合に全体と細部を行き来しながら進めてゆくのです。

「自ら」を全体の細部として仮定してみる

作品の制作と同様に「自ら」を外界全体の細部として仮定すれば、自らの存在を実感するとは、他者との関係や社会的な環境などの全体感との深い関わりから、個人の価値観や目標といった細部を形成する意味合いになります。

そして、その形成されたものが、外界に対してどれだけ影響をあたえているのかといったような内省を、細部と全体、全体と細部、といった具合に行ったり来たりしながら思考します。そしてその中から、何が与えられているのかを探り、理解し、受け入れ、つながろう、とすることで成長が促されるのでしょう。

そう考えると「細部」というのは、思った以上にメンドーで、厄介なもののように感じられてきます。

しかし、その「細部」への理解こそが、成長するためのエネルギー源であり、自己を形成する重要な部分なのです。それは毎日の瞬間瞬間における小さな感覚や思考、行動への選択となり表現され、それら細部が集約され全体となり、今度は全体が細部へと分岐してゆくのを、まるで呼吸をするかのように繰り返し、自分自身の存在を構成してゆくのです。

細部は自由な表現の中に隠れているかも

そして、その「細部」は、すでに大いなるものから与えられているのだよ。というメッセージは今まで何度も暦の中で語られてきていますよね。

すでに「与えられている自らの力を感じられる状態」に自分自身が仕上がってますか?という問いが出てきます。

正直。「できてます先生!」
というにはまだまだ未熟すぎるというのが現実ですよね。

でも、心のままに表現することに
その答えが隠れているかも。と感じるわけです。

ただ、美しいものたちを自由に感じ、素直に表現できているか?ということが日々突きつけられているのです。




2023年12月 落ち葉


細部には、きっと破壊も含まれている

土の上に積もった落ち葉を観ていて、一冊の本を思い出しました。一見、表現とは真逆に感じる、分解についての秀逸な思想なのです。表現には、一種の破壊やあきらめなどのネガティブなものも着いてまわりますよね。

[養分の供給や保持、水分の保持や通気性など植物の生産に関わる「生産者」としての機能とは別の]土壌のもつもう一つの重要な機能は、[……]「分解者」としての機能である。森林の落葉・落枝はいつか分解されて、その中に含まれていた植物栄養は再循環される。動物や人間の作り出す排泄物も土壌に還すことによって「こやし」としての価値を得る。これらはいずれも土壌のもつ分解者としての機能に負っており、環境の保全と浄化に果たす土壌の役割はきわめて大きい。 従来は、土壌の働きを、もっぱらその生産者としての機能によって評価し、物質のリサイクルに果たしてきた土壌の分解者としての機能はほとんど評価されてこなかったきらいがある。

「最新土壌学」九馬一剛編 朝倉書店

ここに書かれているのキーポイントは「生産者」と「分解者」というコトバです。実は、この引用は、「分解の哲学」藤原 辰史氏の中のものです。

表現活動というと、つい生産的なイメージを頭に描いてしまいますが、自然界においては、「分解」をしてゆくようなベクトルも表現活動として外すせない要素だと思います。

「つくる」だけではなく「壊す」要素です。

落ち葉や糞尿、生物の死骸はやがて腐敗し、細菌によって分解され、栄養素として新たな価値を得る。このように廃棄物から新たな生や生産の糧が生み出されることを、著者は広く「分解」ととらえています。

そして、今週のメッセージにあった、「全体の分岐として質朴に安らいでいる」ような状態を想像するに、「表現」する自分の中に、このような「分解」という要素も当然含まれているのではないでしょうか?

「分解者」の例は、この本を読んでいただければ、生物学、文化人類学、歴史学や文学といった学問の枠組みを超えた人類の営みとしてとらえていただけるはずです。

現代において、人は何か有益なものを生み出し、成果をあげ、生産することに駆り立てられています。そして、そこから得られた報酬をもとに、義務ででもあるかのように次から次へと消費する無限サイクルへの疑問に対して「分解」という作用の有用性が語られています。

ぜひ、読んでみてくださいませ。

破壊から再生へ

そして、破壊され分解されたものは、再び生まれ変わり存在するというのが大いなるものの意思なのではないでしょうか?

自分自身も破壊されたものの一部と考えてみてください。自らが抱える不安や痛み、いまわしい想い全て。さらに、理想や成功したことも全て。それらを粉々に分解にしてみることにより、新たな存在が再生される。そのようなことも、大いなるものから「与えられている」といえるのかもしれません。

再び自分自身が存在しているという
実感がわいてきますか?

という部分にはそのことが隠されているように感じてなりません。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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