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韓国日記1

1980年4月ひょんなことから韓国で日本語教師をやることになった。当時は日記をつけてなかったので、正確な日時はわからないが完全に忘れてしまうまえに少し記録しておきたい。映像は宿舎から見た慶州市内。

韓国の大学に就職

大学の博士課程も終わりに近づき、就職もあまり望みがなくなってきたので、どうしようかと思っていたら、同級のKJが、韓国で日本語教師をやらないかと言ってきた。民族学会の会長が韓国の学会で、ソウルにあるさる仏教系の名門私立大学TGが慶州で日本語学科の分校を作るのでそこの日本人教師として行かないかというのである。韓国語は学部の時から習っていたが、簡単な小説を読んだり、中期朝鮮語の文法をやったりでおよそ話す機会などなかったし、韓国自体にあまり興味もなかったので、すこし逡巡したが、ほかにあてもなかったので、行くことにした。

給料は国際交流基金からでると聞いていた。あとで知ったのだが、この給料は人にでるのではなくポストにたいして出ることになっていたらしい。しかも、全額ではなく、半分の給料補助という名目であり、もう半分はその大学で支給することになっていたのだが、この話はまたあとで。

今となってはこの話が持ち上がったのがいつだったのか記憶が定かでない。その民族学会の会長なる人にあいさつし、日本でコーディネータをしてくれた韓国人学者(確か法学かんけいの専門家、もう名前も覚えてない)の方にあい、ビザの手続きをしたのだが、いつまでたっても、ビザが下りず、出国の日が決まらない。コーディネータの方が大阪の総領事と知り合いだというので、話に行き、そこでとにかく観光ビザで入国して、むこうの大学で手続きをしてもらおうということなり、急遽、4月20日ぐらい(12日だったかもしれない)に行くことになった。

なぜかお見合い

これがたしか3月初めぐらいだったと思うのだが、外国に行くのだから結婚していったらどうかというので(平成、令和の感覚ではあまり理解できないけれど、なぜかそんな雰囲気になり)、親しい友人が知り合いの心理カウンセラーをやっている女性を紹介してくれて、お見合いすることになった。この方とはうまく合わなくて、まあ、一人で行けばいいやという風に思っていたのだが、その友人のご母堂がなぜか私のことを気に入って、「本気で」探すとかおっしゃって、出国1週間前にお見合いをした。お見合いと言っても、本人同士が電話で連絡し、待合場所を決めて、会ってボーリングして、ボートに乗って、食事して別れただけである。

それなりに気があったのと、会う人会う人がみんな彼女が美人だ、かわいいというので、私はあんまりよくわからなかったがそうなのかなあと思っていた。彼女はちりちりの髪をして、茶髪にそめていたので、あんまり好みじゃないなあという気がしていたような気もする(というかあんまり見てなかったかも)。また会いましょうということになり別れた。

二回目のデートは、韓国で会う人たちに渡す贈り物を選んでもらうのに付き合ってもらい、友人たちが準備してくれた送別会に来てもらった。私の両親も来ており、意図したかどうか忘れたが引き合わせることになった。両親がやどに引き上げるというので送りに出ると、二人ともえらく気に入ったらしくて、「あれと結婚しろ」という。我々三人が出ているあいだ、友人たちは彼女を説得にかかり、「あれと結婚しろ」と言っていたそうである。

それから二,三日して韓国に出発する。その時住んでいたマンションをどうやって片付けたのか、まったく記憶がない。家財道具はだいたい捨てるか、実家に送り、本も一部は友人に預かってもらい、大半は実家に送ったはずであるから、送別会をしてくれた友人たちが寄ってたかって手伝ってくれたのは間違いない。このときにてきぱきと差配してくれたMZTN君が聞いたら「恩知らずめ」とか言いそうである。

韓国に出発

韓国に出発して、金海空港に着き、高速バスで慶州に向かった。切符はなんとか買えたが、たしか直通のバスがなくて、東莱というところで乗り換えるのだが、特にアナウンスをしてくれるわけでもなく、どこで降りるのかタイミングがわからない。おまけに韓国の叔父さんたちはとつぜん「いごちょむぽぷしだ(これちょっとみましょう)」とか言って、こっちが読んでる新聞(すこしは韓国語になれとかなくっちゃと思って飛行機でもらった韓国語の新聞を持っていた)をのぞき込んだり、はては、引っ張って持っていこうとする。「ポヨチュシプシオ(見せてください)」とでも言ってくれたら見せてあげるし、読んでもわからんからあげてもよかったんだけど、「みましょう」とか言って引っ張られると、「なんじゃこのおっさん」と思ってしまう。見るからに日本人ぽいのでなめられてるのかと思って緊張してしまう。

それでも乗り換えないと関係ないところに行ってしまうわけで、勇気を振り絞って、「東莱はまだでしょうか」と言おうとした。「まだ」は「あじく」だし、「でしょうか」は「イムニカ」だから、「トンネヌン アジギムニッカ。」とでもいえばいいのかなあと考えるけど、なぜか、聞いたことがないし、なんとなく通じないような気がした。そこでしばし考えて、「トンネに着くまであとどれくらいかかりますか」にあたる韓国語を作文し、隣の新聞を勝手に読んでるおっさんに聞いたのだけれど、返事がない、というか通じてる感じがしない。これはトンネの発音が悪いに違いないというので、トンネのンをなんとか韓国風に発音したら、トンネが東莱というのは通じたようで、あとは旅行鞄持ってるし、乗り換えやなというので、運転手に「トンネ アジン モロッソヨ(トンネはまだ遠いですか)」みたいな感じで聞いてくれた。そこで東莱で運転手が知らせてくれて無事乗り換えることができた。というと簡単なようだけど、いまだに覚えているところを見ると相当に苦労したらしい。

宿舎に到着

いずれにせよ、乗り換えて慶州のバスターミナルに付くと、SK先生という私の上司になる日本語学科の主任の先生が待っていてくれた。先生はもともと新聞記者かなにかで、東大の当時の新聞研に研究生として行っていたような人で、大変気さくで、しかも死ぬほど親切な方だった。先生の案内でTG大学の宿舎に着き、部屋に荷物を降ろして、すこし休んでから、町の案内とかをしてもらい。無事、韓国最初の日が終わった。

大学はすでに二月から始まっており、次の日から早速大学に通勤する生活が始まる。大学は宿舎からバスで二〇分ほどにあり、毎朝、宿舎からほかの先生方と一緒に行く。市営バスでもいけないことはないのだけれど、まだ、どのバスに乗ればいけるかわかっていなかったので、最初はこのバスを逃すまいと必死で早起きしていった。宿舎から大学までは、さる有名な将軍の銅像がある公園をすぎて、川を渡っていく。この川沿いの道が、舗装はされているが、左は川、右は果樹園で、反対方向からくるバスと対向できないという細くて長い道となっており、運転手の運転があらいので毎回かなり怖かった。個人研究室は結構広く、日本からまだ本が届いていないので、なにもなく机といすだけのがらんとした部屋だった。ついてからは大したこともなく、いよいよ韓国での生活が始まったが、ついて2,3日してから、勤務中に、日本で韓国に来る前にお見合いした彼女から宿舎に電話があり、折り返し電話しろと言う。韓国日記2)に続く