韓国日記8ー日本へ帰国

就職と残りの韓国生活

ぼちぼち残り一年の契約を残して、帰国する算段をしていたころ、中国の大平学校に行かないかという話があった。中国で日本語教師の再教育をする機関で、非常に有名な先生方が1年ほどの予定で教鞭をとっておられた。中国語は若いころすこしやっていて、日常会話のレベルとすれば、韓国語よりできたので、一年住めば、かなり上達するかもしれないとおもって心が動いた。

が、新婚で、1月にはこどもができるので、結局、日本に帰国するほうを選び、友人が推薦してくれたKB大学の日本語・日本事情に応募した。このとき、私の業績としては、韓国言語学会で出した英文の論文と印刷中の大邱のKM大学の紀要の論文しかなかった。口頭発表は国際学会で一つ、日本の学会で一つあったけれど、実際に、出版されていたのは論文1本である。1981年当時は博士号もなく、論文1本でも国立大学の専任講師として就職できたわけである。

無事、日本での就職がきまり、残りの韓国生活を送っていたわけであるが、どうやって生活していたのがほとんど記憶がない。大学には当時食堂はなく、いったん大学に行ってしまうと近くに食事をするところはないわけである。それなのに弁当を作って持って行った記憶もないし、バスに乗って、町に出かけた記憶もない。妻が帰国するときになぜか大量にコロッケを作って冷凍庫いっぱいにしていってくれたので、まいにち、それを解凍して食べていたような気はするが、あとの食事は記憶がない。

韓国ではキムチさえあれば、あとは一品あれば十分なので、なにか買ってきて食べていたのかもしれない。キムチは12月ぐらいになるとキムジャンボーナス(キムチを漬けるためのボーナス)が出て、大量にキムチを漬ける。女の先生は自分でつけて、おすそ分けしてくれるので、英文科の先生と、薬学の先生がいろいろおすそ分けしてくれたような気がする。

あとは、大邱に非常勤に行くときは晩御飯も食べて帰ってくるし、夜は同僚の先生方と食べに行ったりするので、それなりに過ごしていたのかもしれない。食べるものがなくて苦労した記憶が皆無なので、特に問題はなかったのだろう。学生時代は毎日自炊生活をしていたため、料理はほとんど苦にならなかったはずではあるが、これぐらい記憶がないというのは不思議である。

冬休みになってからも帰国準備のために韓国に残った。非常勤の給料でほぼ二人が生活できたので、一人になってからは給料がまるまる残った。当時は、ウォンを円に換えられるのは、入国の際に両替した額までという規則だったため、持っていたウォンはほとんど換えられない。そこで何か買って帰るということになるわけだが、目利きでないため、価値のあるものなどわからない。勢い本を買って帰るということになるのだが、1980年初頭の韓国は流通が進んでいなくて、慶州で本が手に入らない。古本屋もないので、仕方なく、書店に頼んでいくつ影印本を買ってもらった以外は、小説を買わざると得なかった。これらの小説はいまだに読んでおらず、また、影印本はまったく使えずに、人にやってしまった。

本当は、韓国の利子の高さを考えれば、銀行にそのままおいておくのが一番賢かったのだが、すでに新婚祝いをくすねられかけた以外にも、軍事政権下で、いろいろ不快なことがあったため、韓国に戻ってくる気持ちはなくなっていた。

1月に子供が生まれ、2月の末に帰国した。韓国の2年間は就職していたと見なされなかったため、研修扱い、4月に発令されるまで一ヶ月無職状況が生じて、研修とも見なされなかった。この一ヶ月のため、さらに等級がすくなく査定されて、ひとより三等級すくない給料での出発だった。

就職した年度の1月にソウルで形式言語学のワークショップがあって、発表に行ったのが最後で、それから18年間全く韓国には戻らず、韓国語はまったく話す機会がなかった。18年間の間に話す能力は揮発して、それなりに聞き取れるのにほとんど話せなくなってしまった。2001年に18年ぶりに、世話になったUMD先生の韓国での勲章授与のお祝いに行く時まで、韓国語は例文を作る以外に使うことはなかった。

面白いもので、韓国には2年も居なかったのだが、韓国語はまったく忘れていた訳ではなく、タクシーに乗った瞬間に、戻ってきて普通に言葉が出てきた。ただ、発音はどうもだめになっていたらしく、韓国人に間違えられることはなくなっていて、コンビニで「ビール1缶ください(캔맥주 하나만 주세요)」と言ったら、「あ、こいつ日本人だ」と言われてしまった。もちろん韓国の人は必ず相手には敬語なので、これは独り言なのだろうけど、結構ショックを受けた。18年前なら、これくらいで日本人とわかるはずはなかったからである。

2003年-2004年にから「冬のソナタ」がNHKで放映され韓国ドラマブームが始まるので、2001年にはまだ第一次韓国ブームが始まる直前で、なんの兆しもなかった。しかし、ビールの注文事件でショックを受けたので、すこしずつ韓国語の勉強を再開する。「韓国日記終わり」

「韓国生活 おまけ」をどうぞ、「韓国語学習記」も予定、何かまた思い出したら書きます。