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Hawai'i滞在記1977年-その1

韓国滞在記が終わったので、今度はHawaiiの話をすこししようかと思います。こっちも45年前の話なので、記憶が定かではありませんが、いろいろ書けないこともあったので、当たり障りのないところで何回かにわけで書いていくことにします。

1.最初の海外旅行

1977年、博士課程の1年の時にに初めてハワイに行きました。初めての海外旅行です。中学校3年か高校1年の時に英検2級を受けたときに面接官からハワイのことを聞かれて、ハワイと発音したら、Hawai'iであると言われて、減点されてそれで落とされたのでどこか恨みを感じていたのですが、ホノルルに着いた瞬間にそういうのは吹っ飛んで、目くるめく青春の日々が始まりました。26歳でした。

確かこのころ京都のYMCAで英会話の教師をやることが決まってたのですが、英会話の教師がアメリカに行ったことないのもまずいだろうというので、ちょうど英語教師の団体がアメリカ言語学会(LSA)の夏期講座へのツアー募集していたので、急遽行くことにしました。当時はまだ一ドル360円の固定相場から変動相場制になって間もないころで一ドルは270円前後だったようです。そのレートで往復旅費、大学寮の滞在費、朝昼のミールチケット、夏期講座の参加費まですべて含んで30万円ちょっとでしたので、かなりリーゾナブルな値段だったのではないでしょうか。

2.ハワイ大に臨時入学

LSAの夏期講座はその開催校との共催で行われるもので、世界中の言語学者が集まって、その当時の最先端の講義を集中講義の形で提供してくれます。しかも、正式に登録すると開催校の単位がもらえるということで、登録すると図書館入館証やその他の大学の施設を使える許可証とかをもらえます。

入国ビザは取ってなかったのですが、ツアー会社の方で観光ビザにスタンプを押してもらっていて、夏期講座で授業を受けることは許可されていました。ツアー会社を通さずに自分で手続きをした人は、ただの観光ビザだったので、うっかり授業を受けに来たと言ってしまうと当然のことながら、入管で捕まって別のところに連れていかれてとっちめられます。僕は問題なかったのですが、後ろにいた友人が捕まってしまい、そいつがあいつも同じ目的で来てると言ったために一緒につかまってしまいました。そこで別室に連れていかれたらややこしかったのですが、その後ろの連中はスタンプを押してもらってて、夏期講座のことを事前に聞いていた入管の係官が来て説明してくれたおかげで無事無罪放免となり、入国できました。

同じようなことは、アリゾナの大学で夏期講座があった時にもおきたそうです。いま結構偉くなってるTKB大の先生が学生の時に、夏期講座に出て、前期後期の間の休みの時にナイアガラの滝を見物に行って、カナダ側にわたってしまい。再入国する際に、大学の講座を受けに来ていると言ってしまって、学生ビザを持っていなかったので再入国できなくなりそうだったのですが、同じような人が何人も出てきたので、やはり、夏期講座のことを聞いていた係官が説明して事なきを得ました。これはアメリカで夏期講座が非常に大きなイベントで入国管理の方が存在を把握されているということと、当時はまたアメリカの入国管理が結構融通が利いたことを示しています。911以後はひょっとするとビザなしでは難しくなっているかもしれません。それと日本で同じようなことをやったらビザなしでは難しいかもしれませんねえ。

3.寮と授業の登録

入国のごたごたも笑い話ですんで、寮に入り、憧れのハワイ学生生活が始まります。ここでOKJM先生なら、憧れのハワイ航路でも歌いそう。

寮は二人部屋で、ポルトガルの言語学者と一緒。アメリカの寮は夏休みは学生はいられないので、夏休みは有料で貸し出すのが普通らしいです。シャワーもトイレも別だったけど、その当時住んでいた日本の留学生寮もそうだったし、当時は若かったので、あんまり気になりませんでした。今の学生だと耐えられないかも。実際、ミシガンのLSAでホテルに部屋がとれず、学生と一緒の寮にすんだときは、一人部屋だったけどトイレとシャワーが別だったので結構きつかったです。

ハワイ大の寮は、男女が同じ棟で別に階もわかれていないので、各階に4つほどあるロビーで一緒に話したり、時々は部屋に入れてもらってしゃべったりして、楽しかったです。結構、カップルもできていたらしいですが、私には縁のない話でした。

一通り部屋に落ち着くと、授業の登録が始まりました。登録のために並んでいると、田窪さんですかという人がいるので、「はい」というと、そのころ住んでいた留学生会館で友達になった、インドネシア語研究のアメリカ人学生から聞いたといいます。なんで僕のことが分かったのか今となっては覚えていませんが、これが今はハーバードの教授で生涯の友人となるJCBSN氏でした。彼はシカゴ大のマコーリー先生の学生で、当時は大学院に入ったばかりだったはずです。とんでもなくハンサムで15ぐらいまで日本で生まれて育ったため、日本語がよくできました。

日本の授業のつもりで、6つぐらいの科目を登録しました。と言いつつ、いくつ取ったか忘れてしまっていたので、ここで数えると、フィルモア先生の意味論・語用論、マコーリー先生の統語論、スタロスタ先生のLexicase、Sohn Homin先生の韓国語形態論、李基文先生の韓国語史の5つをまず登録し、追加でKim Chin-Woo先生の韓国語音韻論を取ったようです。当時の日本の授業とはすこし違ってて、週に2回授業があるものもあるし、毎回リーディングリストが渡されて読んでいかないと授業についていけません。どの授業もものすごく刺激的で、いまもすべての講義のノートを保存しています。フィルモア先生もマコーリー先生も大教室で、200人以上の出席者がいたはずですが、授業中の質問は非常に活発で、参加している感が半端ない。日本の授業では同じことをしたら嫌がられるので遠慮していましたが、ハワイ大では自由に発言できるし、発言内容をすぐに次の授業で取り上げてもらえるし、夢のような毎日でした。

4.単位をあきらめる

マコーリー先生は中華料理に詳しいので有名な人で、中華料理ピクニックをするからお前も来いと言われて、行って遊んだり、フィルモア先生や李基文先生に授業中の発言をほめられたり、なかなか充実したハワイ大学生生活を送っていたのはいいのですが、普通に予習しながらやってると、午前2時までやっても終わりません。朝は7時半ぐらいには朝ごはんを食べに行かないといけないし、夜は夜でいろんな催しがあるため、残りの全ての時間を当てても物理的な時間が足りなくなってきます。もう博士を取ってすべての授業を聴講(audit)でとっているポルトガル人の先生はいい加減にして早く寝てくれとうるさいし。ロビーや図書館で勉強するのもだんだんと疲れてくるし、どんどん焦ってきて、6つの授業で3つ単位を取るというのは人間業ではないような気もしてきて、寝る時間が3時間を切ったあたりで、最後の手段で一つ単位をあきらめることにしました。

気楽なお客さんのつもりでハワイ大まで来たつもりが、実は単位取得にしたために単位をあきらめるのも大変で、問い合わせると学部長に面談しに行かないといけないといわれます。しかたなく、学部長の秘書にアポイントメントを取って、学部長に面談に行きました。どういう理由を述べたかはあまり覚えていないのですが、かなり泣きついた感じだったかもしれません。無事許可されて、スタロスタ先生のLexicaseを聴講に変えてもらい事なきを得ました。単位登録をしてしまうと、日本でも取り消すのは一定の期間を過ぎると難しいというか不可能かと思います。いつ変更したのか忘れてしまったけれど、なんでそういう正規の手続きをしたのか覚えてません。多分、もう一度アメリカの大学に来るつもりで、一つでも単位を落としたくなかったのかもしれませんね。

一つ、聴講にしたことで気が楽になったけれど、忙しいのは何も変わらず、1時か2時まで予習して、朝6時ごろに起きて、朝食をたべ、朝の一時間目から出る生活はなにも変わりませんでした。3時間の睡眠時間が4時間になったぐらいかな。その2に続く