卒業式で泣けない
例のウイルスのせいで、全国の小中学校・高等学校の多くが休校になり、それに伴って卒業式が中止となったという話を耳にした。もちろんめでたき門出の日が中止になるというのは残念なニュースであり、その学校で過ごすおそらく最後の日を心待ちにしていた人にとってはとても悲しい出来事だったのだろう。
しかし、私は正直なところ彼らがうらやましいと思った。卒業式というものが苦手、いやこの際はっきり言えばどうしようもなく嫌いだったからである。
素敵な卒業式のエピソードを期待していた人は、ここまでで読むのをやめてください。どうかよろしくお願いします。いやな気持にさせてしまうだけだと思うので。
卒業式が嫌いなのは、まともな感性を持ったクラスメイトが泣いているときに自分が全く泣けないからである。泣く理由がないのである。偶然のめぐりあわせ(人は時にそれを運命と呼ぶ)によってたまたま数年間同じ狭い学び舎に閉じ込められただけのクラスメイトとの別れが、悲しく思えない。親しい友達とは、いつでもまた会えるだろうと根拠もなくまだ信じている。後になって、学校に行くという口実がないと集まることも難しいと知る。
卒業間近になると、あれだけ陰で愚痴を言われていた担任教師が、素晴らしい人だったかのように言われ始めることが理解できない。
もともとほとんど交流のなかった別グループの人間とやたらと写真を撮りたがるのもよく分からない。よく分からないが、言われるがままに撮っていたらインターネットに公開されてしまうことは何となく想像がつくので逃げる。偶然を装って卒業証書入れや卒業アルバムで顔を隠して写ろうと努力する。
要するに、帰属意識が希薄なのだと思う。クラスの一員として~とか、みんなで団結して~とかいう文言が苦手だ。望んじゃいないのにどうか仲間扱いをしないでくれ、私自身に全く興味がないのは分かっているから、クラスメイトとしての責任感とやらで構わないでくれと思う。体育祭で勝ちたいと思わない。文化祭の出し物に積極的に関与したいと思わない。昼休みは殊に苦痛で、自分の教室に居場所を見つけられず、他クラスの教室に入ることが許されず、行くところがなかったので、友人と、若しくは一人でただ只管チャイムが鳴るのを待ちながら廊下を徘徊していたことが忘れられない。
そんな人間にとって、卒業式は、いや、式典自体はいい。決められた作法通りに行動していれば終わるから。卒業式あとのホームルーム、別れを惜しむ人たちのためのほんのひとときがたまらなく苦痛だった。知らない人のお葬式に出ているような、ニュアンス程度しか言葉の分からない外国人の集団に放り込まれたような不安を感じた。
おそらく学年に数人くらいは私と同じ気持ちで耐えていた(私が耐えられていたかどうかは定かではない、もしかしたら不自然な態度をとってしまっていたかも知れない)人がいたと思う。
それでも卒業式に参加することを決めたのは私自身であった。その時は行かなければならないから行く、という積りであった。しかし、その選択は、その学校での学生生活にはっきりとピリオドを打つという大きな意味を持っていた。
もし、あの頃の私が、とつぜん卒業式が中止になったことによって呆然としていたならばこう伝えたい。
卒業おめでとう、幸か不幸かもうあの学校に通う義務も権利もないのだ、制服を焼くなり教科書をすべて捨てるなり、あるいはもう少し過激でない方法を選ぶにしても、その手であの学校での学生生活に終止符をどうか打って欲しい、あなたはもう解放されたのだ、と。