能動的な優しいと受動的な優しい

 決定権を持つことがしんどくなってきた。決めるということは、責任をもつことである。仕事の場に限らず、気になっていたカフェの味がイマイチだと連れてきた相手になんかゴメンと思ってしまうし、雲行きの怪しい中行った動物園で土砂降りに遭うと申し訳なさで身が縮こまる。仕方がない、で片付けられないのだ。
 一般的に優しい人は決定権を渡してくることが多い。「あなたの行きたいところに行こう」「あなたのやりたいことをやろう」。確かにうれしい。でもちょっと違うな~と思い始めた。

 優しさには2種類あると思う。
 失敗を的確に叱ってくれる、迷っていたら提案してくれる、以前欲しいといったものをプレゼントしてくれる…これらを私は「能動的優しさ」と呼んでいる。本人が相手のことを考え、行動してくれる優しさ。
 一方で、話を親身に聞いてくれる、失敗しても許してくれる、要望を受け入れてくれる…これらは「受動的優しさ」だ。自分の意見を抑えて、相手を尊重する優しさ。どちらもいい人だ。うまい人は両方を適宜使い分けている。

 決定権を無条件に渡してくるのは「受動的」に分類されるだろう。学生の頃はよかった。親や先生に口うるさく言われる毎日の中で、「自分のいうことを聞いてくれる人」は自尊心を大いに満たしてくれる。 
 大人の私たちは、決定権をもった状態がデフォルトであって、それをプライベートでも求められると疲れるのだ。ただ流れに身をまかせているのが楽になってしまう。
 う~ん、なんという贅沢。

しかし、優しい人はもちろんいい人なので対話すればいい。そこを遠慮して、もとい面倒くさがってしまうのが私の悪いところ。

ただし、受動的に優しい人の皮をかぶった、「ただの意思のない人」には要注意。高確率で「自分は優しい」と思い込んでいるからね。

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