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成長とも可能性とも違う、「変容」という唯一無二の美しさについて。

今日は25歳の誕生日なので久々に文章を書く。

誕生日という区切りは人生を振り返る軸としてとてもわかりやすいし、こういうタイミングがあるっていいよね。そして、誰にでも1年に1回しか来ない、その平等性も素晴らしい。宗教も、人種も、生まれた背景も、何も関係なく、「あなたが生まれたことそれ自体に『おめでとう』」だなんて。なんだかおとぎ話っぽいのに、何歳になってもうれしいよね。(もちろんそれに紐づく思い出が綺麗なものばかりでない人だって多いはずだから、そこは切り離して、私は「その日」というシンプルな意味でめでたいと思っている。念のため。)

まず振り返り。

ちょうど1年前の24歳になった日の誕生日のFacebookの投稿がこちら。

先日24歳になったので、恒例の誕生日投稿を。
去年の11月の投稿を遡ると「敵」と戦ってた自分が出てきた。笑
あの時は敵と戦ってボロボロだったなぁと痛みを伴う思い出に、少し笑えるぐらいには成長した。でも、今もう一回同じ現場に行ったら?と思うとゾッとするからまだまだ成長途中。笑

転職して、やっと仕事に慣れてきた頃だったなあ。

とりあえずどれぐらい成長したかというと、下期の目標をこんな感じに↓自分で言語化できるぐらい。
「お客様との接点だけでなく、チームメンバーとの関わりの中で、他者が大切にしたい価値観を知る手がかりをつかみ、それを大切にしながら、提案や意見を伝えることができる。また良い悪いのジャッジメントをすぐに下すのでなく、多様な価値判断軸を持った上で、最適なものを選ぶことができる。」
自分がこんなこと言う日が来るなんて自分でも驚きだ。
敵と戦いたくて、ボコりたくて仕方なかった1年目からすごい変化を遂げて、相手を知ろうとするフェーズまできた。「嫌いなものは嫌い!」と大声で言っていた人間と同一人物だなんて。人間は進化する。
でも進化するには、やっぱり場の設定は大事だと思う。

この目標、当時のマネージャーと一緒に考えたんだけど、めっちゃいいよね。私の課題をうまく含有して綺麗な言葉でまとめてる感じ。

行動力とコミュ力と共感力が強みな私には、色んな場所に行って、いろんな職種の色んな立場の人と話す営業職はめちゃくちゃ楽しい。
さらに成果を可視化できるのもいい。
こんな大好きな職種に出会えたのは本当にハッピーだと思う。
転職するとき、まだ1年目だし、色んな反対もあったし、不安だったけど、行動してよかったとほんとに思う。
物事はやってみて初めてわかるものの方が圧倒的に多い。
そして大好きな職種だからこそ、思考も変化する。
「もっとこういう採用がいいと思う!→伝える→変わらない→伝え方を変えないと!→でもどうやって?→まずは相手を知りたい→聞く」のサイクルが回り続ける。
このサイクルをもっともっと回していきたい。
もちろん、こんなサイクルを回せるのは自分だけの力じゃない。素敵な同期や、すごい先輩やびっくりするくらい心の広い上司の方々がいて、そして、お客さんがいて。やっと回るサイクル。本当にありがたい環境に感謝が止まらない。
前職でパパやママに「スモールステップで褒めてあげましょうね!」とアドバイスしていたけど、同じことをしてもらっている。
お子さんにそれをする難しさがわかるからこそ、それをしてもらっている今、先輩や上司の方のありがたさがわかる。
だから、24才は環境への感謝を忘れずに、多様な価値判断軸をたくさんたくさん知っていきたい。「異質なもの」のその先にある、未知の価値観を、「嫌い」ではなく、「おもしろい」と感じたい。

自分で読んでみて気づいたのはこの頃すでに「聞く」というキーワードが出てきていて、「営業職」の本質をここに置いていること。

そして約1年後の私は「聴く」を大切にするこんな組織にジョインしたり、「家族の対話」をテーマにしたこんなサービスを作ったりしている。

人生って面白い。

あんなに「嫌い」がはっきりしていて、人の話なんて聞こえない、そんな刺々しい感じだった私が、なんでこんな感じになっちゃってるんだろう。笑

間違いなく、人との関わりの中で、私は変容している。(「成長」とも言えるのだろうけど、その言葉はなぜか向上的なものやエネルギッシュなものをイメージさせるから、ちょっと違和感があるんだよね。そういう正のエネルギーだけを指すのではなくて、下方修正的な見え方をするものを含めるのが「変容」のいいところだと思う。いいも悪いもないからこそ、その方向性を決定づけない言葉がフィットする)

人の変容が好きなのは、きっと自分の変容が好きだから。

人や自然や、ものや、文章や、色々なものとの関わりの中で、人はいくらでも変容する。ガラッと変わったり、ちょっとしか変わらなかったり、すぐ変わったり、ゆっくりだったり。それはいろいろで、ちょっとずつ違って、例えば絵具を混ぜていくような、色水に溶かしていくような、そんな風だ。

どんなものを通した変容でも、どんな形の変容でも、それは、間違いなく、その人しかなし得ない、固有の変容だ。そして混ざった色は2度と元には戻らなくて、それに近しい色にするために水を増やしたりすることはできるけど、それはもう、元のそれとは質量が異なっているのだ。

その変容の多様さと予想できなさがあまりに尊くて、そして同時にヒヤリとするくらい脆くて、めまいがしそうになる。

そしてその変容がわかりやすい子供に、大人は未来を託したくなるのだろうな、と思ったりもする。いわゆる「可能性」ってやつだ。

(とはいえ「可能性」という生温い言葉にその変容の美しさを内包してしまうのは危険だとも思う。繰り返すけれど、全ての変容がわかりやすい素晴らしいものではないし、あらゆる変容が許容されない「可能性」という言葉は一種の怖ささえ感じるのである。)

さて、自分でも書いていた下記の目標。

24才は環境への感謝を忘れずに、多様な価値判断軸をたくさんたくさん知っていきたい。「異質なもの」のその先にある、未知の価値観を、「嫌い」ではなく、「おもしろい」と感じたい。

どうだっただろう。

環境への感謝はたくさんできたし、それだけ環境に恵まれている。

じゃあ「異質なもの」を「面白い」と感じられただろうか。

それはまだまだな気がする。

異質なものってどうしたっていやだし、「うげええ」ってなる。つい先日も旧世代的おじさん(私が苦手とする、日常会話で差別表現を惜しみなく使い、自分の価値判断が世界の基準と信じて疑わない類の人々。おじさんに限定するわけじゃないが圧倒的におじさんに多い。逆におじさんでもそうじゃない人だってたくさんいて、時代背景的にそうなっても仕方なかったのに、そうならなかった、彼らの尊さには尊敬してもしきれないくらいだ。)に出会ってしまい、その発言の1つ1つにいちいち鳥肌が立って、怒りが治らなかった。面白いなんて微塵にも思わなかった。「論破したい自分」が顔を出す。

でも、とここで一呼吸置くのである。

そもそも「論破したい」「言い負かしたい」という欲望の背景には何があるのかと。

恐ろしいけど、その背景には「自分の方が正しいと知らしめたい」という、独裁的で強権的な自分がいるのである。もちろん、その「正しさ」が一般的な正しさに近しい場合もある。そうするとあたかも自分が絶対的に正しいかのように勘違いしそうになるのだ。

でもそれは「私の正しさ」「私の好きな周囲にいる人の正しさ」であって、「あなたの正しさ」ではない。それだけは事実だ。

だから、「私」と「あなた」は「正しさ」という物差しでは測ることができない。

だから、話すしかないのだ。そして、知ることによってだけ、私とあなたは同じ線の上に立って、物事を見ることができるのである。

彼のその発言の背景や、人生や、その歴史的背景にまで思いを馳せる。

もし私も彼と同じような人生を歩み、同じような組織に属していたら?私は彼のような発言をせずにいられるのだろうかと。

でも、これをやりすぎると「過剰適応」のような状態になる。「わかりすぎて自分軸を失って迎合してしまう」そんな感じだ。

だから、「同じ線の上に立ちたいか」はやっぱり考えた方がいい。

その先に「あなた」と作り上げたい何かがあるのか、しっかり吟味したい。

多様な価値軸を知ることは確かに大切だ。

だけれども、どうしたって混ぜたくない色があるなら、あえて混ぜないことだって、それはそれで大切だ。

この塩梅が難しいから、人生は難しいのだけれど。

長くなってしまったので今日はここまで。

未来の私はどんな色だろう。どんなものを通してどんな変容をしているだろう。

混ざり合いの中で生きていく私たちは、私の周りの社会は、どんな形をしているだろう。

その混ざりをより多様にできるよう、私自身をもっと拡張していこう。

成長ではなく、拡張していこう。

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