見出し画像

「女の子だしアザになったら困るから」いちご状血管腫は消すものという無言の圧力に屈した話

退院して生後数日経った頃、沐浴中の赤ちゃんの足に、小さな赤い腫れを見つけた。

調べてみると「いちご状血管腫」という良性腫瘍とのことだった。

いちご状血管腫(乳児血管腫)という、いちごのような赤あざができる乳幼児の良性腫瘍の診断と治療を行う専門外来です。未熟な毛細血管が増殖して発症し、女の子に多く発症するとされています。日本人の発症頻度は0.8~1.7%ですから、珍しい病気ではありません。赤みはいずれ薄くなりますが、痕を残すことがあります。

キラリこどもクリニックのHPより引用

「良性腫瘍」とのことだったから、私はとても安心した。命に関わることでないなら全然問題ないと思った。

だけど、周囲の反応は全然違った。

すでに選択肢は2択だった

夫や実母や義母(義実家に里帰り中だったので)はレーザーで消すことができると知って、「いつ消すのが本人にとって痛みがないか」「女の子だし、目立たないところにできててよかった」という話題で持ちきりだった。

家族だけではない。1ヶ月健診の時の小児科医も「今はレーザーで消せるからね」と言ったし、助産師さんも「うちの子も女の子で肩にできてたけど、早くレーザーで消したら綺麗になったよ!だから大丈夫」と言われた。(何がどう大丈夫なんですか?と聞かなかっただけ私は偉い)

すでに選択肢は「消すか、消さないか」ではなく「消すのは今か、もう少し大きくなってからか」の2択だった。

もちろん、みんなが言いたいことはわかる。

大きかろうが小さかろうが、良性だろうが、悪性だろうが、「アザ」というものは「ないほうがいい」ものなんだろう。「消せるなら消したほうがいい」ものなんだろう。まして「女の子にアザがある」のは早急に対処すべき重大なことなんだろう。

ほくろはよくて、アザはダメ?

だけど、たとえば、ほくろだったらどうなんだろう?
ほくろはついててOKで、アザはダメなのだろうか?
だとしたらその境界線はなんなんだろう?

「通常サイズのほくろは気にならないけど、大きすぎると気になる」「そばかすは多すぎるとちょっと気になる」「アザはどんな大きさでも気になる」みたいな、なんとなくあるわたしたちが集団として持っている境界線

わたしはそんなものどうだっていいと思うけれど、だけど、この子はどうかわからない。その「なんとなくある集団意識」に、適応したいと願うタイプの人間かもしれない。

そして、そういうタイプの子が、意図しない場面で他者からアザについて言及されたら?という場面を考えると、早めに消すに越したことはないのかもしれない。

だけど一方で、生まれながらにもった「自分らしさ」の一部を勝手に消されてしまうのは、私だったら悲しい、と思ってしまう。

この子は私じゃないから、どうしていいかわからなかった。

幼児の主権はどこにある?

もう1つひっかかったのは、「主権がこの子にはなかった」ことだった。だって本来、自分の体のことは自分で決めていいはずだし、その権利がある。
そして、それは他者によって侵害されるべきではないと私は考えている。

だけど、この子はまだ言葉をもたない。意志の確認ができないという壁がある。

例えば、生後2ヶ月からさっそく打たなければいけないワクチンが4種もある。そしてこれは当然のように打つつもりだった。

じゃあ、ワクチンの選択は親が主体者になって良くて、レーザーはダメなのか?その境界線はなんなのか?

命に関わるから?だけど、命は絶対で、精神的な苦痛に関わるかもしれないことはいいのだろうか?

全然わからなくなった。

だけど、消すことにした。

最終的に、わたしは皮膚科の先生と相談しながら、レーザー治療の方向で進めている。

結局、「もしこの子が嫌な目にあったら」という集団意識からくる圧力に屈してしまった自分がいる。

だって、身近な家族でさえ、たかがアザでこんなに大騒ぎする世の中なんだもん。「その子らしさ」や「個性」というキーワードより前に、「女の子だから」がくる世の中なんだもん。こんな世界に、わたしはこの子を産み落としてしまったから。だから、ごめんね。もうすこし世界が変わるまで、その前にあなたがどうにか少しでも傷つかずに済むように、ママはあなたらしさの一部を消してしまうね。だけど、なるべく早く、そうじゃない未来を引き寄せるから。もう少しだけ、待ってて。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?