あっぶな〜い!危うく傷つけられるところだったわ☆
以前、他人への期待値を下げることができるようになった話を書いた。
この時、他者への期待値が下げられるようになったと共に、もう1つ大きなことを得ていたことに気づいた。
それが「誰にも、わたしは、傷つけられない」という自信であり、「私の感情は私が決定権を持つ」という自負。
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昔から私はいわゆる「繊細な」子供だったように思う。
常に他者の目が気になったし、否定されることが怖くて、「傷つけられた」という被害者意識を強く持つタイプの子供だった。
多分これは、本当に傷ついたという面と、もう一方で、自己防衛の機能もあったと思う。
「傷つけられた私」「かわいそうな私」でいる限り、多分他者はそれ以上私を責めないし、傷つけないし、何より、「私の方が傷ついた」ということで相手を圧倒的に悪者にできる。
「悲劇のヒロインの私」は常に悪者に酷い目に遭わされながらも、健気に、粘り強く、逆境の中で生きていた。ひっくり返せば、「悪者」が存在しないと私はわたしを肯定できなかったし、その意味で、とても「嫌いな他者」に依存していた。
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もちろん今でも、否定から入るタイプや、攻撃的な他者は嫌いだし、「自分だったらその言い方はしないな」という言葉のセンスを持ち合わせた他者に遭遇すると嫌悪感は感じる。
が、「キモ」「うざ」と感じても、その先の「傷ついた」には到達しないように、その前に意図的に感情をストップできている。
他者の行動や言動は、他者がコントロールするものだけど、それによって私がどう感じるか、という感情は私がコントロールするものであると強く意識できている。
その感情の決定権を他者に渡さないというのはつまり、「私はその他者に依存していない」と証明することでもあるから。
依存したり、気にしたりしたい他者(例えば好きな人、わたしの場合は夫)なら、存分に感情を動かされたらいいと思う。
だけど、そうでもない相手に、わざわざ自分の大切な「感情」を明け渡すほど、私は優しくはない。
そのバウンダリー(境界線)を明確にしておくことはとても大切だ。
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ここ最近、過去の自分なら絶対傷ついただろうな、という出来事があった。
「私は悪くないのに」とか「なんでそんな言い方するの」とか、そういう負の感情のオンパレードだったような、そんな大きめの嫌なエネルギーを受け取りそうになってしまった。
だけど、このことを思い出して、「おーーっと!あっぶな〜い!危うく傷つけられるところだったわ☆」と華麗に自分の気持ちをコントロールすることができた。
そう。大丈夫、このテンションでいいし、このテンションがいいのだ。
いちいち切り刻まれたかのようにぐちゃぐちゃになる必要も、立ち直れないほど深く項垂れる必要もない。
コミカルに、ポップに、圧倒的な軽さで、流す。受け流しさえしない、ただただ「流す」。
頭の中で、「へ〜〜〜!そんな風に言っちゃうんだ〜〜!そういうタイプなんだね〜。わたし、あなたのそういうところ、好きじゃないわ〜☆」と思いながら、真新しい外来種を見るかのような眼差しで、その他者を眺めてみる。
そうして、気持ちがひと段落したら、「たしかにそうですね!」とか「すみません」とか、その他者が最も望んでいるであろうお返事を丁寧に返してあげる。
後味を悪くせず、その他者が気持ちよく、何より早く、私のステージから離脱していただけるよう、最高の花道を作って送り出す。
頭では「まあでも、そういう人もいるよね。あなたはあなたの正義で生きてください、私も私の軸で生きていきますね!アディオース!」と別れの挨拶。
こうして私は、危うく他人に傷つけられそうな局面を無事乗り越えられた。
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6年前、まだまだ他者軸だった私は、どうでもいい上司に、大切な自分の心と時間を奪われていた。関わる世界があまりに小さく、あまりに依存度が強かった。
そうしてなんとかその状況を脱して、2社目でどんどん自分軸を強め、でもやっぱり傷つけられたりしながら、結局はそういう他人が多かったり、関わる人を選ぶことができない会社員を、ついに辞めた。
段々と、わたし軸が整い、自分である程度「誰と働くか」を選べるようになった。どんどん嫌な他者は少なくなった。
そうして、娘が産まれ、誰かに自分の心や時間を奪われるほど暇ではなくなったし、その時間があるなら自分の心と時間を存分に使いたい存在ができた。
こうやって、私は傷つきやすい少女から、ひよっこ社会人になり、たくさんいろんなことに向き合って、しなやかな私に、強い母になっていった。
それと同時に、「あなたの全部が嫌いじゃないよ」というやさしさまで添えられるようにもなっていた。
「あなたのそこは好きじゃないな」と感じながら、同時に「部分的にそこが嫌だけど、全部をジャッジする必要もないし嫌いという必要もない」と思えるようになった。
随分と生きやすくなったなと思う。
こうして私は今日も、健やかに生きて、存分に蓄えた心と時間を娘にたっぷり注ぎきって夜を迎えた。
きっとまだまだ未熟だけど、大丈夫。
わたしはちょっとずつ、わたしになってゆけるから。
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